intermission
intermission-幕間
アイクの宮は、主を失ったことで急速に体温を失っていった。
隣室で待機するローザとハンネスの間には、重苦しい沈黙が、まるで澱のように溜まっている。
「殿下、どうされたのかしら……」
ローザの呟きは、湿った夜気に吸い込まれて消えた。彼女の指先は、アイクのために用意した温かな刺繍入りの毛布を、強迫的に握りしめている。
「ねえ、ハンネス。あなた、何か知らないの? どうして殿下はあのような……。あんな、何かに追い詰められたような、痛々しいご様子で……」
「……俺にもわからん。ただ、第二皇子殿下の塔から、血の気が引いた顔で飛び出して来られたんだ」
ハンネスは窓の外、暮色に沈みゆく庭園を見つめた。
夜風に揺れる木々が、まるで巨大な獣の影のように蠢いている。いつもは鉄の仮面を崩さない彼の頬が、わずかに引き攣った。
(――驚いた。あんな、ただの子供のような……)
ハッとして、彼は自らの思考を否定するように首を振る。アイクは間もなく六歳になるが、今はまだ五歳。本来なら親に縋って泣きじゃくるのが当たり前の幼子なのだ。だが、アイクという存在のあまりの異質さが、その事実を忘れさせていた。
「……落ち着かれたら、ホットミルクでも用意して差し上げればいい。今、我々にできることをしよう。主君の不調を案じるのは、臣下の務めだ」
思考を強制的に切り離すように、ハンネスは事務的な口調で促した。
「え、ええ確かにそうね。……わたくし、用意してきますわ。なにかあったらすぐに教えてちょうだい」
ローザは逃げるように厨房へと向かった。その足音は、静まり返った廊下で虚しく響いた。
独り残されたハンネスは、暗くなりゆく空を仰ぐ。
(殿下が子供だなんて、思えるはずがなかった)
かつて、己を言葉ひとつで屈服させた、あの凍てつくような眼光。あのような怪物を、ただの幼子として慈しめるはずがない。
だが、先ほどの怯えた背中は、どこからどう見ても、暗闇に迷い込んだ迷子そのものだった。
情を抱き始めている自分に、ハンネスは自嘲の笑みを浮かべる。自分はアイクにとって、路傍の石か、精々使い勝手のいい駒でしかないというのに。
(考えるのはよそう。凡人に殿下の深謀遠慮など、わかりはしないのだから)
※ ※ ※
一方、第二皇子の塔。
リーンハルトは、アイクが去った後の冷え切った机を、呆然と見つめていた。
卓上の魔導ランプが、微かな油の焼ける匂いと共に、明滅している。
(アイク、どうしたのだろう)
真っ青な顔。呼びかけても空洞のように響かない、灰青色の瞳。
追いかけることすら許されないほどの絶望を纏って、彼は去っていった。
「僕のせいだ」
独りごちた言葉が、冷たい石壁に跳ね返る。
弟が「前世の記憶がある」と漏らした時、心に浮かんだのは、かすかな喜びだった。
――それなら、あれほどまでの頭脳を持っているのも納得だ。
そう、理論の飛躍を「前世」という都合のいいピースで埋めてしまった。その、学者にあるまじき安直な縋りつきが、アイクを追い詰めたのではないか。
前提を考えよう。
前世の記憶があったとする。
その場合アイクが真っ青になったのは会話の前後からしておそらく記憶についてのことについてだと仮説を立てることができる。
前世の記憶がなかったとするなら。
いくら考えてもわからなかった。なぜアイクが前世の記憶があるとリーンハルトに漏らしたのか。なぜあんなにも真っ青になったのか。
だがいくら仮説を考えても真相には辿り着けない。きっとアイクは天才ゆえに、リーンハルトの眼差しの中にあった「異端への安堵」を敏感に感じ取ったのだ。
※ ※ ※
――アイクが、失踪した。
その報告をハンネスから受けたのは、皇帝が今日の執務を終えようとしていた夜半のことだった。
執務室には、高級な蜜蝋の匂いと、冷え切った紅茶の香りが漂っている。
皇帝は内密に捜査を命じると、重厚な革張りの椅子に深く背を預けた。
忽然と消えた息子。その部屋の机には、ただ一枚の紙切れが、重しも置かれずに残されていた。
『Clavis aenea ianuam ferream non aperit, Pater mi. ……Proximo tempore, clavem minimis fractam dato.』
端正な、それでいてどこか投げやりなアステリア語の筆跡。
「青銅の鍵では、鉄の門は開きません。お父様。……次は、どうぞ折れない鍵を」
脳裏に浮かんだのは、古い故事だ。
『青銅の鍵と、鉄の門』。
弟を愛するがゆえに、逃げられるよう「柔らかい青銅」で鍵を作った兄。だが弟は、鉄の門を回しきれずに曲がった鍵を見て、兄の憎しみを誤解し、絶望の中で命を絶った。
(中途半端な慈愛は、かえって人を地獄へ突き落とす……か)
盤上が一気にひっくり返された気分だった。
皇帝は震える手で、その紙を握りしめる。
アイクはすべて、見透かしていたのだ。
自分がアイクを遠ざけていたのは、いたずらに悪意に晒さないため。
アイクやリーンハルト、クーリルトなど周囲に監視を付けていたのは、大事になる前に芽を摘み、貴族の権力争いから守るため。
帝国の舵取りの冷たさを混ぜ合わせた時点で、それはもはや純粋な鍵ではなかった。その「守るための拒絶」という青銅の鍵は、アイクの心という重い鉄門を開けるには、あまりに脆く、そして残酷だった。
(それならアイク、いや、アイザークは自ら、出ていったのだな)
皇帝は、握りしめた紙に記されたその名を見つめる。
「アイク」という響きは、かつて玲凛が異国の言葉を混ぜて呼び始めた、愛称に過ぎない。第一皇子も第二皇子も、そして献身的なローザですら、彼を「アイク様」と呼び、その可愛らしい虚像を愛でていた。
だが、この国に生を受けた際に授けられた真の名――アイザーク。
その名を彼に呼びかけた者は、誕生の儀の際、名付け親としてその名を宣告した皇帝、ただ一人だけだった。
(お前は、一度もその名を名乗らなかったな。……一度も、我らに本当の自分を許さなかったということか)
アイクは、第三皇子との会話でも自らを「アイク」と称した。てっきり愛称を本名だと勘違いしているものだと思っていたが、それは親しみではなく、「君たちが望む『アイク』を演じてあげよう」という彼なりの冷笑的な客演だったのだ。
父として、皇帝として、自分は彼に「鉄の鍵」を渡すべきだった。
拒絶という隠れ蓑ではなく、誰にも曲げられない、真っ直ぐな肯定を。
「……見つかるはずもあるまい」
皇帝は苦く呟いた。
我らは、あの子を「アイク」と呼んだ。
それは親愛の情から出た呼び名だったはずだ。だが、いつしかそれは「無害な幼子」という檻になっていた。
「アイザーク」
皇帝として、父として。あの子の背負う業も、才覚も、全てを含んだその真名を呼び、一人の人間として対峙すべき瞬間があったはずだ。
だが、あの子が「アイク」と笑うことに甘え、その奥にある瞳を見ようとしなかった。
誰にも本当の名(本質)を呼ばれないまま、あの子は独り、鉄の門の向こうで凍えていたのだ。
自らの意志で消えた怪物を、凡人の捜索隊が捉えられるはずがない。
広大な帝都の闇のどこかに、アイクは「鉄の鍵」――自分を自分として受け入れる場所を、探しにいったのだ。
「次は、どうぞ折れない鍵を。……か」
窓の外では、夜明け前の最も深い闇が、静かに世界を塗りつぶしていた。




