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アイクは母、玲凛の柔らかな膝の上で、彼女が広げる手紙を眺めていた。

母の指が紙面をなぞるたび、衣擦れの音と、東洋の国独特の白檀のような香りが鼻をくすぐる。

玲凛は時折、アイクをあやすように背中をトントンと規則正しく叩いた。その微かな振動が、幼いアイクの意識を心地よい微睡みへと誘う。


「アイジュ……怎么说来着。皇帝になりなさい.」


夢心地の耳に、異国の旋律を帯びた子守唄が届く。

意味はわからない。けれど、母の喉から震えるその音色は、アイクにとってこの世で最も温かな宝物だった


アイクが二つか三つの時。アイクはいつものように玲凛の手紙を横から眺める。

アイクの頑張りが玲凛を喜ばせられると思った。アイクはその手紙を読んだ。


「孩子出生了?我妹妹?」


アイクは玲凛に尋ねた。でも返ってきたのはいつもの柔らかな声ではなかった。玲凛のトントンっとしていた指がピタリと止まる。

アイクが不思議に思って上を見上げると、玲凛の顔は彫刻のように強張っていた。

キョトンとして話しかける。


「妈妈怎么了?」


触れた母の体は雪の日のように冷たく、激しく震えていた。寒いのかもしれないそうアイクは思った。ぎゅっと小さな腕で精一杯玲凛を抱きしめる。


玲凛は抱き返してはくれなかった。それどころか、それどころか、アイクの腕を震える手でもぎ取るように引き剥がすと、裾を乱して部屋を飛び出していった。


「おかあさま…?」


残されたのは、冷えた空気と、母が落とした手紙だけ。





冬の隙間風が、アイクの首筋を冷たく撫でた。

窓の外は、凍てつくような氷雨が降り続いていた。

吹き付ける風が、窓枠をガタガタと獣の唸り声のように揺らしている。


(おかあさまがあってくださらない……なんで。どうして)


あの日以来、母の宮の門はアイクに対して閉ざされた。

「お忙しい」「お加減が優れない」

最初は並べられていた言い訳も、今ではただ「お通しできません」という無機質な拒絶に変わった。


「まりあ。」


アイクは乳母を呼んだ。


「はい。どうされましたか?おかあさまのお宮に参られますか?」


柔らかな声でマリアが返事をする。


「まりあ、ぼくおかあさまにお会いしたい。なんであってくださらないの」

「おかあさまをさびしく思うお気持ちはわかります。でもきっとお忙しいのです。ここで一緒に待って後でいーーっぱい褒めてもらいましょう?」


マリアはアイクをなだめるように、その頭を撫でた。

その手は温かい。けれど、アイクの心に空いた穴は埋まらなかった。

何か悪いことをしただろうか。怒らせるようなことを言っただろうか。

考えれば考えるほど、幼い胸の奥がチリチリと焼けるように痛む。


「まりあ。こっそり、おかあさまに会いにいこう?一目見るだけでいいから」

「まぁ、殿下は悪い子ですね。悪いことしたらおかあさまはもっとあってくださいませんよ」


腰に手を当てて、困ったように笑うマリア。

その「完璧な大人」の対応が、アイクにはひどく空虚に感じられた。

マリアだって、嘘をついている。みんな、遠ざけようとしている。


「まりあも悪いことしてるじゃん!」


思わず叫んでいた。マリアは一瞬、キョトンとした顔をした。

「……マリアはいつでもいい子ですよー。さあさあ、なにしてあそびましょうか」


誤魔化すように笑って話を変える。

母の顔をもう一度確かめたかった。


「まりあ、お金をこっそり持っていってるでしょ?おうりょう』ってこの前大人が話してたの、こういうことでしょ?」


マリアはすごく。それはすごく驚いたようだった。

マリアは、ひび割れた仮面のまま固まった。

アイクは知っている。マリアが病気の我が子のために、必死で宮廷の書類を書き換え、端数の予算を自分の懐に流し込んでいることを。


「僕がクッキーを盗み食いするのと、同じでしょ? 紙を書き換えるのも、お金を持っていくのも、まりあにとっては『内緒のお菓子』なんだよね?」


アイクは純粋な瞳で、マリアを見上げた。


「だからね、まりあ。誰にも言わないよ。まりあが『悪い子』なのは、僕とマリアだけの秘密にする。……だからお願い、僕を――」


おかあさまのところへ連れて行って。

そう続くはずだった言葉は、マリアの豹変によって喉に張り付いた。


「あ……、あ…………」


マリアが、糸の切れた人形のように床に崩れ落ちた。

震える腰が抜けて、床に突いた手がガチガチと音を立てる。

アイクを慈しんでいたはずの瞳には、今や、底知れぬ深淵を覗き込んだような絶望と、生理的な嫌悪が混ざり合っていた。


「まりあ……?」


アイクが不安になって手を伸ばすと、彼女は悲鳴すら上げられず、いざりながら後ずさった。

その唇が、痙攣するように小さく動く。


『ば、け、も、の……』


音が、消えた。

マリアの瞳は、もうアイクを見ていなかった。

マリアにとってアイクは、守るべき愛らしい皇子ではなく、人の皮を被って思考を読み取る「何か」に変貌したのだ。


「……なんで、怖がるの?」


ぽつりと漏れた声が、冷え切った部屋に虚しく響く。

お菓子の盗み食い。ちょっとした嘘。その程度のことじゃないのか。


そこから先の記憶は、ひどく曖昧だ。

気づいた時、マリアは部屋からいなくなっていた。

アイクはただ、薄暗い部屋の真ん中で立ち尽くしていた。


「……内緒にしてあげるから、連れて行ってって、言いたかっただけなのに」


ーーお菓子の盗み食いはそんなに悪いことなの?


マリアが怖がった理由はわからなくてもアイクを畏怖したことだけはわかった。そして玲凛もまた、アイクのことを畏怖していたのだ、と。


目の前にあった本の題名をみる。『東洋思想ーー輪廻転生について』


「……ぼくは前世の記憶があるからバケモノなんだ」



※ ※ ※


そう、自分に言い聞かせてきた。

自分の異質さは「別の人生」の持ち越しであり、今世の自分自身のせいではないのだと。


(前世など、()()()()。……()()()()()()()()()()んだ)


前世という都合のいい設定を言い訳にして、自分の異質さに目を逸らして。

ーー僕に前世はない

冷たい廊下を、心臓を叩きつけるような鼓動とともに走る。

背後からは護衛騎士ハンネスの規則正しい足音が追いかけてくる。

それが職務であるのは分かっている。けれど今のアイクには、自分を追い詰める断罪の足音にしか聞こえなかった。


バン、と乱暴に自室の扉を蹴るように開ける。

中にいた侍女のローザが、驚きで肩を跳ねさせた。


「殿下……? どうされたのですか、そんなに青い顔をして」


ローザが歩み寄る。その瞳には、かつてのマリアと同じ慈しみが溢れていた。

その瞳を拒絶したくなる。そんな目で見ないでほしい。その光は、次の瞬間には恐怖という闇へ反転するのだ。それをアイクは知っている。


「はっ、はぁ、っ……」


ゼイゼイと肩で大きく息をするアイクに、ローザが心配そうに手を伸ばした。その温かな掌が背に触れようとした瞬間、アイクは電流を浴びたように身を捻って拒絶した。


「お、ねがい。一人に……し、て……っ!」


絞り出すような懇願に、ローザとハンネスは顔を見合わせた。アイクの様子が明らかにおかしい。だが、今のアイクにこれ以上踏み込むことは、アイクを追い詰めるようなものなのだと悟ったのだろう。


「……隣の部屋に控えております。何かあれば、すぐにお呼びくださいね」


ローザは悲しげな微笑を一度だけ残し、二人で部屋を退出した。

静寂が訪れる。だが、頭の中の雑音は止まない。


()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()())


身の毛がよだつ。どうしようもない現実が、冷え切った指先を這い上がってくる。

自分は、盤上を操る華やかな神(デウスエクスマキナ)などではない。

――ただの不気味で無機質な、心のない鉄屑(エクスマキナ)だった。


「っふ、……は。……あはっ」


目から溢れる熱い雫とは裏腹に、乾いた笑いが喉を焼く。


(ぼくは、異端だ)


皇帝には「父」である前に「皇帝」という役割が先行する。

第一皇子にとって、アイクはいてもいなくても大差ない不吉な弟でしかない。

第二皇子は、僕の不在を惜しむだろう。けれどそれは、気の合う同僚を失った時の喪失感と同じだ。その穴は、すぐにより優れた「何か」で埋められる。

第三皇子に至っては、僕がいなくなっても風が止んだ程度にしか感じないだろう。


(おとうさまはわからないけど、でもきっとみんな、ぼくを「アイク」としか認識していない)


ーーアイザーク=フルイド=ヴェルエリン


都合の良い、可愛い人形(アイク))の呼び名。

その奥にいる「アイザーク」という中身のない虚無になんて、誰も興味がないのだ。

いや、アイク自身がそう仕向けたんだ。


でももう、すべてがどうでもいい。


アイクが作り上げたものはただの虚像。家族なんてものはありはしない。

全ては可愛い人形(アイク)の上に成り立っていたものだ。

異端な存在(アイザーク)など誰も受け入れはしない。


(ここを、出よう。本当の居場所を,鉄の鍵を探そう)


胸の奥で何かがぷつりと切れる音がした。

これまで必死に握りしめていた糸ーー家族という名、脆い蜘蛛の糸。



決意は、呼吸を整えるよりも早く固まった。






魔術とは、魔素が空気中の要素を繋ぎ合わせることで発動する。それがアイクの辿り着いた真理だ。


リーンハルトの唱える「魔素置換説」は、あくまで現象の表面をなぞったものに過ぎない。発動動作の誤差によって魔法の規模が変わるのは、動きそのものが重要なのではなく、その動きによって生じる「結合の純度」が正解に近いかどうかだ。


アイクは、リーンハルトから贈られた杖を握った。

魔素が光の要素を繋ぎ止める最適な動作――リーンハルト兄様との研究で導き出した、理論上の解。杖を振る。魔素が編み込まれ、光の屈折率が極限まで歪む


鏡を覗き込む。

そこには、何も映っていなかった。

自分が、この世界から消え去ったような錯覚に襲われる。


最低限の荷物をまとめる。窓枠に足をかけ、外の空を見上げた。

冷たい風が、火照った頬を叩く。

そのまま飛び出そうとして、アイクは足を止めた。


(幕引きを、しなくては)


すべてを放り出すのは、開いたままの本を放置するように、あるいは服のボタンを一つ掛け違えたままにするように、本能的な嫌悪感を覚える。自分という「不具合」をこの帝国から削除するなら、最後の一行まで完璧に書き上げなければならない。


アイクは机に向かい、震える指先でペンを握った。


ひとこと。ただ、ひとこと。

自分に「折れやすい青銅の鍵」を渡した男へ。


『次は、どうぞ折れない鍵を』


それで、すべてが完結する。

アイクは窓から、そのまま夜の闇に溶けた。


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