Deus ex machina(デウス・エクス・マキナ)
Deus ex machina-機械仕掛けの神
カチャ、と磁器の擦れる音がやけに高く響く。
第一皇子アヴェラルトの応接室は、西陽が差し込み、埃のひとつさえ許さないほどに整えられていた。その完璧すぎる空間は、かえって部屋の主の心の余裕のなさを映し出しているようだった。
「何用だ」
感情の読み取れない横顔。アヴェラルトは、茶杯から立ち上る湯気の向こうから短く要件を尋ねた。
「リーンハルト兄様のお使いで参りました」
「リーンハルトの?」
アヴェラルトの眉が僅かに動く。
もちろん、直接頼まれたわけではない。だが、この口実が最も都合がいい。
薬の流通に皇太子の拍をつけられ、アヴェラルトの性質も確かめられる。可能なら無効化も。
「はい。先日開発に成功した新薬が、実証試験を終えたそうです。ぜひ、兄様に使っていただきたいとのことでした」
返ってきたのは、薄氷のように冷たい微笑だった。アイクがアヴェラルトに薬を手渡すのには意味がある。
ハンネスの傷病薬のカモフラージュだ。皇太子が関与している痕跡でもあれば多少は誤魔化せるだろう。
「なら、本人が直接来ればいい。そなたがここに足を運ぶ理由などないはずだ」
丁寧な言葉の中に、明確な拒絶が混ざる。
アイクはわざとらしく、困ったように眉を下げて声を落とした。
「あの、これは兄様の体裁に関わることなので……その、僕の独り言としてお聞きください」
視線を伏せる。そうしてからアヴェラルトの方を伺う。
アヴェラルトは眉を上げて続きを促した。
「実は、クーリルト兄様が西方遠征の際、珍しい薬草をリーンハルト兄様に持ち帰ったのです。兄様は今、その改良に夢中で。……僕が伝言役を買って出ました」
アヴェラルトの表情に、微かな亀裂が入り、感情が吹き出す。
「クーリルトが、わざわざ? ……どういう風の吹き回しだ?」
リーンハルトが来ない理由への納得と、二人の接触への困惑。
「……クーリルト兄様とリーンハルト兄様は、仲が悪いのですか?」
あどけない疑問。それは、アヴェラルトをアイクの盤上に引き摺り出すための鋭い楔だ。
「……いや、なんでもない。気にするな」
アヴェラルトはカーベルティーを一口飲み、視線を逸らした。
彼は今、あらゆるものに揺れていた。次期皇帝としての資質、社交の力、そして目の前の「忌むべき黒髪」への接し方。その正解を見つけられずに、もがいている。
「……黒髪は、お嫌ですか?」
無垢な顔をしたアイクが、静かにその迷いの核心を突いた。
「……嫌いだ。そなたはこれ以上、私に関わるな」
絞り出すような拒絶。だが、その声には確信がない。
「リーンハルトにもだ。これ以上、近づくな」
冷徹な皇帝の影を追うようなその言い草に、アイクは内心で溜息をつく。
(そんなところまで、おとうさまに似なくてもいいのに)
冷たい拒絶の中にわずかな後ろめたさが滲んでいる。
「……やはり、僕の存在が兄様の枷となってしまうのですね」
子供らしくない、諦念に満ちた微笑。
アイクはわざと孤独な影を纏って見せた。
「……わかっているならいい。それが、双方のためだ」
「存じています。……ああ、伝言は確かにお伝えしましたから」
傷病薬の小瓶と資料を、戸惑う従者に手渡す。
そのままアイクは退出した。
アイクはこれでいいと満足げな表情をした。
これ以上の孤独を晒すことになってしまったというアヴェラルトの罪悪感を枷にする。
ーー中途半端。
この枷がアイクとリーンハルトとの間を引き裂こうとしないだろう。二つの目的を全て達成した。
そうして季節は巡り、庭園が萌黄色から深い緑へと塗り替えられる頃。
アイクは相も変わらず、リーンハルトの塔にいた。窓から吹き込む風は既に夏を予感させ、二人の議論は陽炎のように熱を帯びていた。
「例えば、兄様が火を出すときは杖を激しく振るのに対し、水の場合はほとんど動かしません。つまり杖の軌道が何らかの性質を利用して魔素が励起しているのではないかと」
アイクが杖の動体アプローチを提示すると、リーンハルトは即座に、しかしどこか楽しげに反論を被せた。
「面白い説だが、僕は魔素による空気成分の置換を疑っている。想像力云々と言われるのは、発動時の予備動作に凄まじい個人差があるからだ。……ほら、これを見てくれ」
リーンハルトが机に広げたのは、膨大な観測記録の束だった。
「三十人の魔術の発動姿勢、魔力密度の推移、そして環境条件の対照表だ。個人差の中に潜む『共通の法則』を抽出してみた」
「環境条件の完全統制、対象のスケッチ……。兄様、これだけの量を一人で? 流石です」
手放しの称賛。アイクはそのデータを興味深そうに見聞する。そうして息をするように続けた。
「……あ、兄様。これ、この23番目のデータが外れ値になってますね。なにか予期し得ない変数が入ってたのでは?…うーんおそらく他のデータの条件を参照すると周囲の湿度による伝達阻害ですね。」
「……」
リーンハルトのペンがぴたりと止まった。いくら考えても特定できなかった外れ値の原因。それを5歳の弟は一瞬で、まるで答えを知っているかのように指摘した。道理に適っている考察を、だ。
リーンハルトは、広げた紙の束を見つめた。いつだってアイクは研究の助けになっている。
アイクのおかげで進展したものがどれほどあるか。自分の努力があっさりと踏み越えらる。
部屋を支配するのは、静寂という名の暴力だ。リーンハルトの喉が、微かに、悔しそうに上下する。
「……本当に、君は底が知れないな、アイク」
ぽつりと、聞かせるつもりのなかったであろう本音が漏れる。アイクの背中に冷たい汗が流れた。
「……この感情は、嫉妬、というのだろうか。君の隣にいると……自分が無能な石に思えてくる」
アイクの背中に冷たい汗が流れた。
(ああ、僕の存在は、兄様にとってすら重石になりつつあるのか)
アイク自身の力ではない。前の世から持ち越しただけの、ただの遺物。
リーンハルトは自嘲気味だった笑みを消し、真っ直ぐにアイクを見つめて言った。
「アイク。君の思考には揺らぎがないね。まるで天から降りてきて、絡まった糸を一瞬で断ち切る劇の装置だ。.....アイク、君は『デウス・エクス・マキナ』のようだ。」
――盤上を見下ろす、全知全能の異質な神
耐えきれなかった。
神なんかじゃない。前世の記憶という異物を持って生まれただけの、ただの、人間だ。
「……前世が、あるから」
零れ落ちた呟きは、静まり返った部屋に明確な輪郭を持って響いた。
否定したかった。アイクという存在は異質ではないと。
「前世? ……ああ、東洋思想の輪廻転生のことか?」
アイクは咄嗟に口を押さえたが、遅かった。
リーンハルトの瞳に灯ったのは、かつてアイクを救ったあの「純粋な好奇心」だった。
「異質」なものを見る目ではなかった。
安堵しようとした。なのに脳内で警鐘が鳴り響く。これ以上はいけない。話してはいけない。
酷く耳鳴りがした。
「興味深い。教えてくれないか、アイク。君がかつていた国は? 地域は? 職業は何だったんだ? これだけの造詣があるのなら、相当な知識人だったのだろうな」
「……否定、しないんだ。切り捨てないのか」
「頭ごなしの否定など非合理的だ。君のその異常な知性の『出処』が証明されるのなら、これほど興味深いことはない。」
丸ごと受け入れられたような錯覚。忌々しい記憶ごと自分を肯定してくれる兄。
(……僕が異質ではないとわかってもらえるなら)
一瞬、胸の奥で固く閉ざされていたものが、緩んだような感覚がした。アイクは意を決して心の奥底にしまい込んでいたものに向き合おうとする。ずっと忌避していたもの
「前世、では……」
言葉が、出ない。続きが出てこない。
不意に、視界がモノクロームに染まり。激しいノイズが耳の奥で鳴り響いた。
「………ぇ」
何もない。思考が、空白に陥った。
聞かれたことを答えようとした。けれども浮かんでくるのはなんの形もないただの虚無。
暗い穴に手を突っ込んだような虚無。手を伸ばしてもそこにあるのは底知れない闇のみ。
職業は? 地域は? 国は? 家族の名前は?
そもそも、『人間』だったのか?
あると信じていたその「中身」。
ストーリーが存在しない。
――僕は一体、誰の、何を、引き継いでいるんだ?
前世の記憶があると自覚したのはいつだった? 三つ? 二つ?ーーーぁ。あの時からか。
急速に血の気が引き、アイクの視界から色彩が失われていった。
窓から差し込んでいたはずの鮮やかな夏の日差しが、今はただ、網膜を焼く耳障りな白光にしか見えない。
リーンハルトが何かを話しかけているようだが、その声も水中に沈んだように遠く、意味をなさなかった。
足元の絨毯が、底なしの沼のように深く沈み込んでいく感覚。
家族を繋ぎ、未来を設計し、完璧に整えたはずの盤上は、その実、砂の上に描いた絵空事に過ぎなかった。
アイクは自分の手を見た。
五歳の子供の、小さく、白く、無力な手。
この手で、何を掴んでいたつもりだったのか。
ーー乳母を狂わせたのは本当に前世のせい?
ーー家族を繋ごうと武器にしたのは、本当に前世の呪いなのか?
ーーハンネスを落としたのも、リーンハルトの重荷になったこの才覚も。
「……あ、……ぁ……」
肺から空気が漏れる。
リーンハルトが椅子を蹴って立ち上がる気配がした。心配げに伸びてくるその手さえ、今は自分という虚像を暴き立てる拷問器具にしか見えない。
アイクは、縋るような兄の視線を振り切るようにして、逃げ出した。
塔の螺旋階段を転がるように駆け下りる。
――段差が高い。
一段一段が、アイクの膝ほどの高さがある。踏み外せば転落する恐怖。
脳は速く逃げろと叫んでいるのに、短い足がもつれ、何度も壁に手をつく。
「はぁ、はぁ、っ……!」
肺が小さい。すぐに酸素が足りなくなり、喉がヒューヒューと鳴る
喉が灼け、心臓が爆ぜそうなほどに脈動する。




