5
宮に戻ったローザは、そのままクーリルトの宮へ使いに走った。
第三皇子の宮が離れているということもあるだろうが、きっと1番の理由は護衛騎士の存在だろう。
「よかったですね」とローザはニコニコ嬉しげにアイクに言っている。
ローザが去り、扉が閉まる。
かちりという音が静寂を支配した。
アイクは椅子に深く座り足をぶらぶらさせている。窓の外を見ながら鼻歌でも歌いそうなリラックスした様子だ。
そして、アイクの後ろに「岩」のように立ち尽くす巨躯はハンネス。名目上の護衛騎士だ。古いものだがよく手入れされている剣。また立ち振る舞いから実戦経験もしてきているだろう。
「ねえ」
唐突にアイクが振り返った。ハンネスを見る。
あどけない笑顔。
「ハンネスって呼んでもいい? 名前、すっごくかっこいいね!」
アイクは椅子に深く座り、足をぶらつかせながら無邪気に笑いかけた。
「殿下のお好きなようになさってください。……本官はただの、守り刀に過ぎませんので」
ハンネスの返答は酷く事務的で、冷え切っていた。
アイクは嬉しげにはしゃいで見せながら、何気なく会話の糸を垂らす。
「そういえば、ハンネスは西の方の地域が故郷なんだってね。どんなところなの?」
「……農業が盛んで、生き生きとした笑顔に溢れた地域ですよ」
ふーん、とアイクは鼻を鳴らす。
ハンネスの瞳孔がわずかに収縮したのを、アイクは見逃さない。
(ダウト。西は国境紛争の最前線。笑顔どころか、明日をも知れぬ地獄だ)
オルアドイン家管轄の西は農業に適した肥沃な地域であり、周辺国家によく狙われる。
20年ほど前は激戦区であった。18年ほど前に、最も国境に近いイテラ族の国が帝国の属国になり、緩衝地帯としての役割を担ったことで幾分かマシになったが、それでも強い傷跡をその地は引きずっている。
アイクは獲物を囲う蜘蛛のように、内心で口角を上げた。
「……ちょうど今度クーリルト兄様が行く場所だよね。兄様大丈夫かな」
「……」
ハンネスは答えない。だが、直立不動の姿勢のまま、首筋の脈がドクンっと強く打った。
かつて守ろうとして守れなかった故郷。そこに、また「軍事的拡張主義」を掲げる帝国軍が向かうのだ。彼の中では焦燥と無力感がどろりとした澱みのように渦巻いているだろう。
「ぼくね、本で読んだんだ。西の地域は争いが絶えなくて、たくさん死んじゃう人が出てるって。……特に負けた方が。」
ハンネスの肩がピクリと跳ねる。
「……我が帝国の軍が強い、証左ですね」
「『ショウサ』ってなーに?」
「……証拠ってことです、殿下」
ハンネスが短く息を吐く。生まれる緩急。
そこに無知な子供のフリをしたまま、彼が最も負い目に感じてるであろう「帝国軍による凄惨な処理」という傷口に指を突っ込んだ。
「ハンネスは西で戦わなくていいの? 故郷が心配じゃないの?」
「私はッ……! 本官は、殿下を守ることが職務ですので、私情は挟めません」
声を荒らげた。
図星を突かれた人間の精一杯の拒絶。
「ふーん? ……こんな厄介者の護衛って、随分落ちぶれたものだね」
「殿下、それはーー」
馬鹿にされ、反論しようと口を開いたハンネスに対し、アイクは冷や水を浴びせるように、声色を変えた。
「監視、でしょ?」
「ッッッッ!」
ハンネスの表情が、怒りから驚愕へと一瞬で塗り替わる。
その動揺を見逃さず、アイクは淡々と「事実」を畳み掛ける。
「……なぜ、それを」
ハンネスは声を絞り出す。
「だって、報告書に書いてあったもん」
アイクはケロリと言って、机の上に無造作に置いた枚の紙を取り上げた。
皇帝直筆の印が押された、あの護衛候補リスト。
「ハンネス=オルアドイン。侯爵家三男」
スラスラと、アイクが読み上げる。
その声は、幼い声のはずなのに——まるで死刑宣告のように響いた。
「帝国暦645年、帝国陸軍入団。3年後……」
アイクが指で紙をなぞる。
「『上官への抗命により謹慎処分』」
ハンネスの喉が、ゴクリと鳴る。
「翌年、『命令違反』。そして今年——」
アイクが顔を上げた。
灰青色の瞳が、じっと、ハンネスを見つめている。
「『独断専行により帝国空軍歩兵へ降格処分』」
ハンネスの背中に、冷たい汗が流れた。
「ねえ、ハンネス」
アイクが首を傾げる。
無邪気な、子供の仕草。
「『独断専行』ってさ、『勝手なことをした』って意味だよね?
……ハンネスは、何を『勝手に』したの?」
その瞬間、ハンネスの脳裏に——あの日の光景が蘇る。
命令に背いて、民間人の村を守ろうとした。
上官に殴られた。
「帝国の利益にならない」と。
「……っ」
「教えてくれないの? いいよ、ぼく知ってるから」
アイクがにっこりと笑った。
「ハンネスは、『民を守ろうとして』失敗したんだよね」
ハンネスの目が、限界まで見開かれた。なぜ、と顔に雄弁にでる。
「報告書の余白にね、小さな字で書いてあったんだ」
アイクが紙を指差す。
「『理想主義的傾向。実用に適さず』って」
アイクは、スラスラと、報告書の文面をなぞるように滑らかに告げる。
ただの子供だと思っていた相手が、自分の経歴――それも、騎士としての汚点を全て把握している恐怖。
空を飛べぬ人間を『空軍』に置く。名乗るだけで嘲笑されるような名目だけの『空っぽ』の軍。それは事実上の左遷だ。そこに所属する騎士たちは毎日を雑務に使われ、プライドがへし折られていく。
「報告書を読み上げただけだよ?どうしたの、そんなに怯えて」
アイクは机から降り、一歩、また一歩とハンネスに近づく。
足音は軽やかだが、ハンネスには重苦しい圧を伴って聞こえているだろう。
「……ハンネス。西の『農業』は、今は作物の代わりに死体を植えているらしいね。君の故郷は、まだ生き生きと笑っているのかな?」
ハンネスは石になったように固まっている。
否定も肯定もできない。彼の「正義」が、現実の前に敗北したことを自覚しているからだ。
「君の剣では誰も救えないよ。君、帝国軍による虐殺を止めたかっただけなのだろう? だけどその結果、かわいそうに君はここまで堕ちてしまった」
「……」
「正義を貫き通した結果、自らの破滅を招いたんだ。……無駄だったね」
「……ッ!」
ハンネスの顔が歪んだ。それはアイクへの怒りではなく、自分への無能への絶望だった。
ーーここだ
「そんな君に朗報だ! 君を地獄から救済してあげよう!」
パァッと明るい声で、アイクは絶望の淵に立たされた男に手を差し伸べる。
「どうせ君は、お父様に最後のチャンスだと言われたのだろう? でも分かってるはずだ。このままじゃ、一生、飼い殺し、だって」
「なぜ、……それを」
「ぼくならなにもかもを約束してあげられる」
甘い、悪魔の囁き。
ハンネスの瞳が揺れる。唇が戦慄く。
足が泥に嵌ったように動かない。
アイクは。誰よりも深くハンネスの絶望を理解している。
皇帝ですら見向きもしなかった西の辺境の地獄。無念を。
ハンネスの瞳に、「疑念」と、わずかな「縋りたいという欲」が混ざる。
どうやって、と声が漏れた。
「……どうやって、私を救うとおっしゃるのですか」
「いいよ、教えてあげる。疑うのも当然だ。一度君は皇帝陛下の毒牙にかかっているものね」
アイクは蜘蛛のようにハンネスの周りを円網にまとわりつかせる。
ハンネスはアイクの愛らしい笑顔の奥には底知れぬ深淵が口を開けて待っているのだけはわかった。
ーーーー
ようやく全貌を理解したハンネスは絶句する。
それは騎士として最も恥ずべき行為だ。主君である皇帝を裏切り、実家を利用し、あまつさえ幼子と共謀して軍規を犯す。
だが――脳裏に焼き付いているのは、ただ祈るだけで死んでいった西の民の顔だ。
剣は綺麗だった。だが、誰一人救えなかった。
目の前の悪魔は笑っている。この手を取れば、一生、泥の中を這いずることになるだろう。騎士としての誇りは死ぬ。
……だが、それで故郷の民が救われるのなら。
この薄汚い取引こそが、残された唯一の蜘蛛の糸だというのなら。
ハンネスの奥歯が、ギリリと音を立てた。
屈辱と、それ以上の歓喜にも似た昏い情熱が腹の底から湧き上がる
「……殿下。あなたは、私に騎士としての忠誠を誓えと言わんばかりの顔をしているが。結局のところ、私に『主君を裏切って実家の商売に利用しろ』と唆しているだけだ。」
ハンネスは、床に崩れ落ちた。
それは忠誠の礼ではない。共犯者としての、敗北の姿勢だ。
吐き捨てるような言葉。
だが、その声には力がなかった。拒絶ではなく、自分を納得させるための最後の抵抗。
ハンネスの喉がヒューヒューと鳴る。酸素が足りないかのように、彼は自身の首元を掻きむしりたくなった。
目の前の幼児の手を取る。それは、自らが積み上げてきた人生をドブに捨てる行為だ。
皇帝の顔がよぎる。実家の父の顔がよぎる。
無理だ。できない。騎士として、それだけは。
だが、瞼の裏に焼き付いているのは、泥水をすする西の子供たちの姿だった。
永遠にも似た沈黙の後、ハンネスは掠れた声で言った。
「……反吐がでる」
アイクは静かに微笑む。
「そうだね、反吐が出る」
アイクはハンネスの震える拳をそっと小さな手で包み込んだ。
酷く冷たく、しかし壊れ物を扱うような優しい感触。そのギャップがハンネスの防衛反応を麻痺させる。
「でも、正義感で死体を見守るだけの騎士と、騎士道を汚してでもパンを分け与える者。……西の民が望んでいるのは、どっちだと思う?」
アイクは昏い瞳で覗き込む。
「お前の、そのプライドで過去に誰かを救えた?」
ハンネスの瞳に強烈な葛藤が走る。
拳が、白くなるほど強く握りしめられた。
騎士の誇りを取るか。
泥にまみれてでも、民を救う実利を取るか。
呼吸が浅くなる。
自分のプライドと、過去の正義感で揺れる。
ーー民の、ために
ハンネスはギュッと目を瞑った。
一度大きく息を吐く。
ーー民の、ために
沈黙ののち、床に膝をつき、深く頭を下げる。
一度、血が出るほど唇を噛み締めた。
つぅーっと血が垂れる。
「……殿下に従いましょう。この泥に浸かればいいのですね。」
その声は震えていたが、迷いは消えていた。
彼は今、「騎士」であることを捨て、民を守る人間になったのだ。
アイクは満足げに目を細めた。
(……単純だなぁ)
アイクは内心で舌を出した。
この内容を承諾したところで帝国軍の侵略が止まるわけではない。剣で斬られれば人は死ぬし、村は焼かれる。帝国軍の虐殺を止めれるわけでもない。
根本的な解決には何一つなっていないのだ。
だけど、「何かを成している気になれる」という錯覚こそが、絶望した人間に最も効く麻薬だ。
ーーこれで駒一つ。だが、同時に何かを失ったような空虚な思いに駆られた。
キィイーーー。
扉が開いた。
「お伝えしてきました。クーリルト殿下は明日のお昼なら時間が空くそうです。」
ローザが帰ってきたのだ。アイクとハンネスの様子を交互にみて納得したように頷く。
「もう仲良くなられたのですね!」
「うん!ハンネスすごいんだー!」
大きく身振り手振りをして子どもへ戻る。
隣でハンネスがその豹変ぶりに呆然としているのがわかる。
(まぁ恐れられようと、ハンネス自身に利点がある限りは、ぼくに従順だ)
この異質さは全て前世のせいなのだから。
※ ※ ※
数週間後。
窓の外から心なしか緊張感あふれる雰囲気が流れてくる。
第三皇子クーリルト率いる遠征軍が今日、発ったらしい。そうローザから聞いた。
ローザは今日はいつもより浮き足だってアイクの身支度をする。
ーーそれもそうだ。
「今日は玲凛様とのお茶会ですものね」
ローザがアイクの襟元を整えながら、微笑む。
アイクが親と会える定期的な日をただただ喜んでいた。
ただ、玲凛妃の様子をローザが知らないだけなのだ。
アイクはハンネスを伴って後宮の奥にある庭園へ行った。そこは帝国の石造りとは異なる、玲凛妃の故郷を模した、ひどく浮世離れしたところだった。
みたことのない花々が咲き誇っている。
すでに中には玲凛妃が座って待っていた。玲凛妃の座る円卓へアイクは歩み寄る。
「ははうえ。ご挨拶申し上げます。」
いつも通り喉を通り抜ける定型文。
玲凛妃のアイクの背後にいる騎士をチラリと一度だけみた。
護衛騎士が付いたということは、少なくとも皇帝にようやく目をかけられ始めたということ。
(おかあさまはなんとおっしゃるだろうか)
「アイク、座りなさい」
「はい、ははうえ」
アイクがいつも通りの場所に腰をかける。玲凛妃が微笑んだ。
アイクは、チラリと玲凛妃の後ろに控える護衛を見る。
肩幅がきちんと揃えられ、重心が低い。
ーー皇帝の監視の目
「アイク。わたくしの宝よ。皇帝になりなさい。」
「はい、ははうえ」
アイクの専属護衛についてなにも触れなかった。
アイクは目の前の緑茶を見つめる。
「きっと、陛下もアイクが皇帝に相応しいとわかってくださる、ねえそうでしょう?」
「はい、ははうえ」
壊れたオートマタのように繰り返される言葉。
ーーまたか。
アイクはひっそりと息を吐いた。




