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コン、コン、コン――。
深夜の静寂を切り裂くような、控えめなノックの音が響く。
第二皇子リーンハルトは、階段を降りて重厚な扉を開けた。
そこに立っていたのは、アイクの専属メイド、ローザだった。彼女の瞳は不安げに揺れ、所在なげに指先を遊ばせている。
「……アイクのメイドか」
リーンハルトの問いかけに、ローザは消え入りそうな声で、しかし気品を保った礼をした。
「第二皇子殿下にご挨拶申し上げます。……その、アイク殿下を探しておりました。こちらにいらっしゃるとお伺いしたのですが」
リーンハルトは短く頷き、彼女を招き入れるように扉を広く開け放った。
溢れ出してきたのは、古い紙と埃、そして鼻を突くような薬品の匂いだ。ローザは思わずわずかに眉を顰める。
「アイクと有意義な時間を過ごしていたんだ。……先ほど急に糸が切れたように眠ってしまうものだから、少々困っていたんだ。」
リーンハルトは、足元の資料を避けながら先導する。その後ろを、ローザはおそるおそる付いていく。
「……ご無事なのですね」
安堵がローザの全身に行き渡った。一度こぼれた涙は止まることを知らず、堰を切ったように溢れ出した。彼女の頬を濡れていく。
部屋に戻った時、アイクの姿がなかった。
胸が、ひやりとした。
見張りに尋ねれば、皇帝の使いに呼ばれたのだという。
――こんな時間に?
待っていれば戻る。そう思おうとした。
だが、刻が過ぎても足音は聞こえない。
ローザは思わず、アイクが日頃座るソファに手を伸ばした。まだ小さな温もりが残っている。
傍らには開かれたままにされている本があった。ーートゥーリ皇国の童話集だ。
ページの端に幼く拙い字で、いくつかトゥーリ語と思われる単語が書いてある。
周りを見た。
アイクの部屋に置いてある本のほとんどがトゥーリ皇国に関するものだった。
ローザの胸に予期せぬ痛みが走った。
(殿下はきっと母が恋しいに違いないわ……)
きっと母に関するものはひとつ残らず知りたかったのだろう。それをローザは気味が悪いと目を背けた。
同情だと思っていた。可哀想な子どもの少しでも慰めになればと頭を撫でた。
無力な自分を直視したくなくて、孤独な子どもを放置している罪悪感を全て気味の悪いと片付けた。
(なにかあったのだろうか、こんな時間まで……。まさか、もう…!)
最悪の事態を想像して真っ青になった。
職を失う恐怖ではない、自分の子どもが夜の闇に消えたような、あの焦燥。
気づけば、ローザは走り出していた。
涙が溢れ、声もなく泣き続けるローザに、リーンハルトは一瞬狼狽したように立ち止まり、ローザを見上げて、慌ててポケットから清潔なハンカチを差し出した。
「み、みっともないところを……わたくし……申し訳ございません」
「構わない。幼子の体力も考えず、話し込んでしまった僕の落ち度だ」
リーンハルトが示した先には、深く寝入ったアイクの姿があった。
実験机の脇に用意された簡素な寝台に、薄い毛布がかけられている。あどけない寝顔。すうすうと規則正しく刻まれる寝息。おでこには包帯が巻かれてあった。
「殿下、ありがとうございます」
「礼には及ばない。僕の方こそ、得難い時間を過ごさせてもらったからね。あぁあとぼくの不注意で怪我をさせてしまった。処置はしたから心配しないでくれ。」
そこでリーンハルトは一度言葉を切り、言いよどんだ。
あー、えーっと、と目線を彷徨わせ、ようやく口を開く。
「……また、こちらへ来るようにアイクに伝えてくれないか。楽しかった、ありがとう、とな」
ローザの目が驚きに見開かれ、次いで、主を誇るような喜色に満たされた。第二皇子は自分より少し背の低い、少年と青年の狭間の年頃だ。きっとアイクの良き家族になるだろう。
「もちろんでございます、殿下。必ずやお伝えいたしますわ」
ローザがアイクを抱き上げ、静かに部屋を去っていく。
その背中を見送りながら、リーンハルトは無意識に、杖に触れていた。
誰もいなくなった実験室で、彼はポツリと独り言を漏らす。
「……さて、次はどんな話をアイクとしようか」
その口角はリーンハルト自身気が付かないほどかすかに上がっていた。
※ ※ ※
魔術に、のめり込んでしまった
視界を埋め尽くすのはここ数ヶ月一向に減ることのない本の山。
羊皮紙が放つ独特の、古びた乾いた匂い。手元の紙には、細いペン先から絞り出された綿密な論理が書き込まれている。
家族を修復などという作業より、こちらの方が何倍も楽しい。
あれから、何度リーンハルトの塔へ足を運んだだろうか。自他共に認める魔術学の第一人者であるリーンハルトとの議論は、アイクにとって至福と呼べる時間だった。
最先端の知識が乾いた砂に水が染み込むようにアイクの脳へと吸い込まれていく。
「殿下、そろそろ食事をお取りくださいませ。いくらリーンハルト殿下から魔術を学ばれているといっても限度がありますわ」
呆れたようなしかし愛しむような声がアイクを現実に引き戻した。
声をかけてきたのは最近すっかり母のような役割が板についてきたローザだ。
「はーーい。……ねえ、ローザ。あとちょっとだけ。ダメ?」
ペンを握ったままアイクはあざとく首を傾げて見せる。
どうやら、リーンハルトとの魔術研究はアイクがリーンハルトに魔術を師事していると思われているようで都合が良かった。
「先ほどもそうおっしゃられたばかりではありませんか?それに今日は、リーンハルト殿下と図書館へ行かれるご予定でしょう?」
腰に手を当て、メッと叱るローザ。アイクはあちゃーという顔をして渋々ペンを置いた。
重厚な石造りの廊下に、二つの足音が響く。
一つは落ち着いたと歩調。もう一つは、それに遅れまいと弾むような、小さな子供の足音だ。アイクは息を上らせながら、ついていく。
「図書館の地下区画には、魔術の古文書もあってね。アイク、君ならきっと興味を持つはずだ。」
「うん、楽しみ、兄様」
弾んだ声で、アイクがはしゃぐ。
「あ、そうだった。先日一緒に改良した浄化薬……もとい傷病薬。あれの効果をきちんと確かめるためにも、前のように僕一人のデータではなく、複数データを取りたいんだ。だが、良いデータ収集現場が見つからなくてなくてね。……。」
思い出したようにリーンハルトが言った。アイクが返答しようとしたその時、曲がり角から一団が現れた。先頭を歩くのは、完璧に整えられた金髪を揺らす第一皇子、アヴェラルトだ。
「ーーおや、兄上。お久しうございます。」
「……リーンハルトか。元気そうで何よりだ」
リーンハルトの気さくな呼びかけにアベラルトは足を止めた。その視線がリーンハルとの隣にいる「黒」におちる。
リーンハルトとアヴェラルトは母親こそ違うものの同じ帝国の名門貴族の血を引く。だからこそ多少は交流があったのだろう。親しげに声を交わす。
「皇太子殿下、若き帝国の象徴にお会いできて光栄に存じます」
アイクは完璧な、それでいて、子供らしい愛嬌を混ぜた一礼をした。
視界の端で、リーンハルト兄様がわずかに眉を寄せ、それからすぐに表情を消すのが見えた。
以前、黒髪は不合理だと一蹴したリーンハルト。そんな彼が、アイクの卑屈な振る舞いを止めないのは、ここが「理」の通じぬ庭園であることを熟知しているからだ。
リーンハルトはアイクを助けるのではなく、アイクがこの茶番を演じきるのを、ただ静かに待ってくれている。
アヴェラルトは、アイクの挨拶をまともに受け取る代わりに、天を仰いで深いため息をついた。
「はぁ、父上め。どこまで読んでいらっしゃるんだ」
吐き捨てられた言葉にアイクの眉がぴくりと動く。
アヴェラルトの苛立ちはアイクの存在そのものというより、もっと別の……身内への愚痴に近い温度を含んでいた。
「兄上、どうかされたのですか?」
キョトンと、それでいて察しのついたようにリーンハルトが聞く。
「どうやら私は父上の意図通りに使いっ走りにされたらしいな」
「ああ、……まぁ父上のことですから。そこまでお気になさらなくともいいのでは?」
納得したようにリーンハルトが頷いた。アヴェラルトはなんでこの私が、とぶつくさ呟いていた。リーンハルトという身内がいるからか僅かに感情を露わにしている。
「アイクと言ったか。陛下から言伝だ。明日、また夕暮れ時に執務室へ来るように、とのことだ。」
アヴェラルトの眉間の皺から大層難儀なやり取りがあったことが窺える。
アイクは目を丸くして、純粋に驚きを表現した。
「おとうさまがぼくに……?教えてくださってありがとうございます、兄様!」
「……ふん、私は伝えたからな。行くぞ」
アヴェラルトは逃げるように、それでいて優雅な足取りで去っていた
茶番劇内の悪役皇子アベラルトしか知らなかったアイクは少しだけ人間みを感じて可笑しくなった。
翌日、約束の時刻に訪れた執務室で待っていたのは、父の愛を装った新たな鎖だった。
「アイク、お前のための専属護衛、その候補を絞った。この中から選ぶと良い」
並べられた書類を眺めながらアイクは心の中で嘲笑する。
それは護衛などではなく「監視」の選定に他ならない。
誰を選ぶべきか。
中身は一端の政治資料だ。適当に選ぶだろうと皇帝に踏まれている。幼子用に資料を用意する手間が惜しかったとみえる。そのままの調査報告、そして気持ち程度の似顔絵。
その時だった。
バンッッッと重い扉が礼儀もへったくれもなく蹴破られた。
「陛下!!俺を次の遠征軍から外すとは、一体どういうおつもりですかっっ!」
入ってきたのは鋼のような肉体と、戦場の熱風を纏った少年。帝国の「武」の象徴ーー第三皇子クーリルトの乱入だった。
「騒がしいぞ、今はそなたとの時間ではない。何か言いたいことがあるのなら時間をとれ」
眉をひそめ、煩わしそうに皇帝が言う。
「ですが!! 陛下は俺を疎んでいらっしゃる。何かとつけてあってくださらないのはそちらではありませんか!」
「クーリルト。我は忙しいのだ。文句に割く時間などないのはわかるだろう」
「文句ではありません!正当な抗議です!なぜ俺を次の遠征から外した?俺以上に西の地形を誰よりも熟知して指揮を取れるのはいないはずです!」
第三皇子クーリルトと、皇帝との激しい押し問答が始まる。
「それに! 現地からの報告では、傷病兵の死亡率が上がっています! 現場を知らぬ指揮官では、無駄に兵を腐らせるだけだ!」
アイクはクーリルトに感謝した。
怒号が飛び交う中、皇帝の目がクーリルトに向いている今こそ、この「監視リスト」の精読をするチャンスだ。
(……ふむ、死亡率、西側地域。)
ふと、アイクの手が止まる。
リストの一人、『ハンネス=オルアドイン』――侯爵家の三男。
オルアドイン家は西に領地を持ち、第三皇子クーリルトの派閥とも、皇帝の直属ともつかない独特の距離を保っている家系だ。
(確か、西方面での軍需物資の輸送ルートを独占している。)
ーーなるほど。
皇帝が「扱いやすい若造」として用意したであろうその男を、アイクは逆に有効活用することに決めた。
「我に断りもなく軍を動かそうとした罰だ。そなたの独断で動かしていいものではない。肝に銘じるように」
キャンキャンと吠え続けるクーリルト。ふと、視界の隅にいる小さな存在に気づいた。
「……あ?なんだそのガキ。」
野獣のような鋭い眼光がアイクを射抜く。アイクは反射的に椅子の背もたれに体を預けていた子供らしい姿勢を正し、最大限の警戒を好奇心という膜包んだ。
「ご挨拶申し上げます、第三皇子殿下。…………ぼくはアイク=フルイド=ヴェルエリンです」
「アイク……?ああ、あの東の姫の」
納得したように言う。
「変わった目をしているな。死んだ魚のようであり、獲物を狙う鷹のようでもある。」
アイクは急速に背中が冷えていくのを感じた。第三皇子は「本能」で、言うなれば野生の勘でアイクの本質に触れてくる。
首を傾げ、キョトンとした顔を作る。
それを見て、ますますクーリルトは笑みを深め、瞳を鋭くさせる。
皇帝がクーリルトに一声かけ退出を促した。
「クーリルト、話は終わっただろう。さっさと出ていきなさい」
「終わってねえ。遠征軍にもどせ、くそ親父。俺は何回でも言うぞ?」
ふーーーっと皇帝が深い息を吐いた。そして諦めたように言う。
「……わかった、戻そう。ただし、ディーク将軍をつけることが条件だ」
「監視かよ。俺は何回も言っている。心配しなくとも帝位になんぞ興味ないって。まだ疑っているのか」
吐き捨てるようなクーリルトの言葉に、皇帝はぴくりとも表情を変えない。
「まさか。そんなわけあるまい。ディーク将軍はそなたによって謹慎処分を受けた、そなたの部下ではないか。復帰を喜ぶといい。」
「はん。どうだか…。」
クーリルトは不満げに鼻を鳴らし、扉の方へ向かった。
(ああ、おとうさまの盤上か)
皇帝が簡単に折れたのではない。条件を飲ませるために、わざと一度突っぱねてクーリルトを昂らせ、引くに引けない状況を作ったのだ。クーリルトは渋々といった様子で承諾したようだった。
「帝国の象徴、皇帝陛下にお目にかかれたこと、大層不本意ながらお礼申し上げます」
クーリルトが退出の挨拶をする。あの様子からしてきちんと礼節は身につけているのだろうが、わざと荒々しく振る舞い、反抗している。
「アイク。騒がしくて驚いたろう?」
クーリルトが嵐のように去った後、皇帝が苦笑混じりに声をかけてきた。
「いえ! お兄様は元気なお方なのですね。おとうさまとも仲が良さそうで何よりです」
「アイクには、あれが仲良く見えるのか」
「はい! お話はむずかしくて分かりませんでしたけど、とっても楽しそうでした!」
無垢な子供の笑顔。その裏側で、アイクは自分の手中に収まった『ハンネス』という名の駒を、どう磨き上げるかを思考していた。
「そうか。……ところで護衛騎士はもう決まったか」
一瞬、皇帝の瞳に鋭い光が宿る。アイクは迷わず、一人の名を指差した。
「はい! この方にします。なんだか、お名前が強そうだったから!」
アイクは皇帝の執務室を退出した。
前回とは異なり、背後にはローザだけではなく、鉄錆のような匂いを纏った護衛騎士ーーハンネスを伴っている。
(さて。ぼくもナイトを一つ進めるとしようか)
「ねえローザ。ぼくリーンハルト兄様に頼まれた用事を思い出しちゃった。クーリルト兄様へのなんだ。」
アイクは不意に足を止め、ローザに言う。
「大急ぎで、そちらに伺いますってお知らせをしてもらえるかな?ーークーリルト兄様の助けになるものだから」




