番外編 その1
家族との劇的な和解。その余韻で大泣きしてしまったアイクにとって、今の皇宮は気まずさの殿堂と化していた。ほとぼりが冷めるまで「夜天の檻」の拠点に逃げ込んだものの、鳴り止まない家族からの連絡魔と、仕事をしすぎて逆に手持ち無沙汰になった状況に根負けし、結局は足取り重く帰還する羽目になった。
図書館に向かおうとアイクは皇宮の長い回廊を歩いていた。
アイクは正面からくる第三皇子クーリルトの姿を確認した。
正直そのまま方向を変更して部屋に戻りたい衝動に駆られた。
だがわずかに知識への欲望が勝つ。
(……どう応じようか)
しばし思考する。
アイクは一瞬視線を泳がせたが、すぐに表情を「第四皇子」の仮面に切り替えた。
足を止め、非の打ち所のない他人行儀な角度でお辞儀をする。
「――第三皇子殿下にご挨拶申し上……」
言いかけた言葉は、クーリルトと目線が合ったことで詰まった。
クーリルトがその場にしゃがみ込み、アイクと目線を合わせたのだ。そして、あろうことか指でアイクの柔らかい頬をツンと突いた。
「え……?」
想定外の挙動に、仮面が剥がれ落ちる。ポカンとしたアイクを、クーリルトは面白そうに眺めた。
「いいな、その顔。ようやく子供らしくなったじゃねえか」
「……っ、触らないで。僕、子供じゃないから」
アイクは顔を赤くしてその手を叩き落としたが、クーリルトは「はいはい、そうだな」と、大きな犬の相手でもするように軽く受け流す。そのままアイクの細い肩に手を置くと、眉を寄せた。
「お前、抱え上げたら紙切れみたいに軽いじゃねえか。ちゃんと食ってんのか?」
「……人に心配されるほど、困ってない」
アイクは本気で不機嫌そうに身をよじって拒絶するが、クーリルトの眼差しは、どこまでも温かく、そして鋭い。
「裏の世界でそれなりに張ってるって聞いたぜ。……体術はどうだ? 少しは動けるのか?」
「僕は参謀なの。そんな野蛮な真似、必要ない」
「持ってて困るもんじゃねえだろ。来い、少し鍛えてやる」
「ちょっと、放して……! 放せってば!」
抵抗も虚しく、アイクは子猫のように首根っこを掴まれんばかりの勢いで演習場へと連行された。
武人で,しかも年上であるクーリルトにアイクは勝ち目なんてなかった。
「これだからっ脳筋は……!」
数刻後。
アイクは地面に膝をつき、肩で激しく息をしていた。汗が滝のように出てくる。
「……はぁ、はぁ、っ……最悪だ……」
「意外と体力ねえな。よく今まで生き残れたもんだ」
タオルを放ってよこすクーリルトの言葉は、単なる事実の指摘だったが、疲労困憊のアイクにはそれが極上の煽りに聞こえた。
いつもの傲岸不遜な口調が、鋭く跳ね返る。
「はぁ? 僕にそんなの必要ないくらい、周りがみんな馬鹿だったからだよ。……盤面さえ整えれば、指先一つ動かさずに終わる話だ」
「そりゃ、周りが馬鹿な時はいいさ。だが、不測の事態で直接首を狙われたらどうする。死ぬだろ。生き残れねえぞ」
クーリルトが何気なく放った「生き残れない」という言葉。
それに、アイクの動きが止まった。汗を拭う手が止まり、アイクはひどく冷めた、透明な声で呟いた。
「別に構わない」
クーリルトの瞳が、獣のような鋭さで細まる。何かを感じ取った。
「……どういう意味だ、そりゃ」
「言葉通りの意味。死ぬなら、死ぬ時が来たってだけ。……むしろ、待ち望んでるぐらいだよ」
アイクは立ち上がり、乱れた服を整える。その動作には、生きることへの執着も、死への恐怖も、微塵も感じられない。
「駒を動かして、勝機を掴む。そのプロセスだけがぼくを楽しませてくれる。……命を賭けるからこそ生を感じられる。生き残るための体術なんて、ゲームの緊張感を削ぐ邪魔なものだ」
沈黙が演習場を支配した。
アイクがさらりと露呈させたのは、救いようのない虚無。
クーリルトは黙って弟を見下ろしていたが、その沈黙は威圧的だった。
やがて、彼はアイクの腕を掴み、その細い手首をじっと見つめて問いかけた。
「……お前、この世界が『つまらねえ』のか?」
図星を突かれたアイクの眉がぴくりと動く。クーリルトは逃がさない。
「ゲーム、盤面……お前は最初から最後までそう言う。全てを見通すからこそお前は不確定要素を待ち望んでる。そうだろ?」
クーリルトとアイクが共に過ごした時間はほとんどないに等しい。少し話したことがある程度のほぼ他人。それなのに自分のことを誰より深く見抜く。
(だから、嫌い)
眉を顰め、アイクはクーリルトを睨みつける。
「それのなにがわるいの?兄様が武術を楽しむのと同じように僕はこのゲームに楽しさを見出してるだけだ」
アイクは、自分の内側にあるどす黒い虚無を、クーリルトの鋭い視線に引きずり出されるように吐露した。
クーリルトは険しい顔を緩めて言った。
「悪いとは言ってねえよ。ただ,危ういと思っただけだ。命を天秤にかけて楽しむことができるその危うさが」
クーリルトの声には、武人としての怒りと、言いようのない危うさへの懸念が混じっていた。
彼は「守られるべき子供」の皮を被りながら、その内側では、自分の命さえも盤上のチップとして消費することを楽しんでいる。
クーリルトは、野性の勘でそれを本質的に嗅ぎ取っていた。
目の前の弟は、死にたいわけではない。だが、平和な世界で安穏と「生きる」ことに、欠片の価値も見出していないのだ。
「……バケモノって蔑めばいいよ。」
アイクは唇を吊り上げて笑う。
「そうやって理解可能な形に押し込めばいい」
あはっと狂気的に笑おうとした。
その瞬間。
クーリルトはアイクの頭をグリグリした。
「いっっったあ!!なにするの!兄様」
頭を抱えて涙目で睨むアイクにクーリルトはまた頬をツンツンする。
「子どもだなって思っただけだ」
「はああ??僕は子どもじゃないから!!」
クーリルトは思う。アイクは「子ども」だと。ただそれが大人の思い描く子どもの形をしていないだけだ。
「とにかく!体力作りなんて二度と誘わないで。時間の無駄だから」
アイクはふんっと顔を背けると、そのまま訓練場を出ていった。
その小さな背中が、クーリルトには、あまりにも脆く、今にも闇に溶けて消えてしまいそうな幻影のように見えた。
「……ただ、誰もその子どもを受け入れなかったから歪んでしまったんだな……」
ポツリとクーリルトはつぶやいた。
しかし、それから数日。
アイクの拒絶など、この脳筋には通用しなかった。
「なっ! 話聞いてた!? 僕に体術なんて必要ないって言ったじゃないか!」
「ああ、聞いてたぜ。『死んでもいい』だの『娯楽』だの、寝ぼけたこと抜かしてたな。だから余計に、叩き直してやる必要がある」
わざわざアイクの私室まで押し入ってきたクーリルトは、文句を垂れるアイクをまるで荷物でも運ぶかのように脇に抱え、再び演習場へと連行する。
「ちょっと、放してよ! 僕は参謀なの! 頭脳労働が本分なの! 放せってば!」
バタバタと足を動かし、クーリルトの逞しい背中をペシペシと叩くが、岩のような筋肉に阻まれてアイクの手が痛くなるだけだ。
クーリルトは、アイクがどれほど冷徹な論理で死を肯定しようと、そんなものは「空腹なら飯を食う」というような生存の理屈の前には無意味だと、その背中で語っていた。
(……これだから、この人は苦手なんだ)
理屈が通じない。計算の外側から、強引に「生」の側へと引きずり戻してくる。
アイクは本能的に、この兄が持つ底抜けの生命力に、自分の中の虚無が侵食されるような恐怖――そして、ほんのわずかな安らぎを感じていた。
「これだからっ、脳筋なんて大っ嫌いだ!!」
「ははっ! 嫌いで結構。お前が嫌がろうが何だろうが、死なせない程度には鍛えてやるよ。……ほら、今日は走り込みからだ!」
「……最悪だ……」
アイクの絶望に満ちた呟きは、演習場に響くクーリルトの豪快な笑い声にかき消されていった。




