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リーンハルトの従者に案内されたのは、数年前から時が止まったかのような部屋だった。

整頓はされているが、積み上げられた紙の束が「整理」を拒んでいる。かつてのアイクも共有していた、研究に没頭する者の乱雑さ。


変わったのは、部屋ではない。アイクの方だ。


「ああ、アイク。来てくれてありがとう」


リーンハルトが、柔和な笑みを浮かべて顔を上げた。

胸の奥に、得体の知れない熱が込み上げてくる。アイクは無言のまま、指定された椅子に深く腰を下ろした。


「アイク。先日の、君が使っていた転移術式のことなんだが。……僕なりに、現在の理論をベースにまとめてみたんだ。よかったら、見てくれるかい?」


家族の情愛ではなく、研究の議論。

アイクは微かに安堵した。リーンハルトから差し出された数枚の羊皮紙を受け取り、視線を走らせる。


「……うん。見せて」


そこに書かれていたのは、現代魔術の限界を象徴するような、回りくどい計算式だった。

アイクは溜息を吐きそうになるのを堪え、ペンの先で、ある一節を鋭く指した。


「リーンハルト兄様。……方向性は悪くないけど、前提が古すぎるよ」


アイクは机の上の白紙を引き寄せると、ペンを走らせた。


「兄様は『空間を繋ぐ』と考えているんだろう? 違うよ。転移は移動じゃない。世界を巨大な『方眼紙』だと思って。ヴァルプトーアは、今いるマスの自分の名前を消して、別のマスに書き直す――存在情報の書き換えなんだ」


リーンハルトが、アイクの描いた奇妙な図を凝視して絶句した。


「書き換え? 待て、それでは一ミリでも誤差が出れば……」


「そう、死ぬよ。足が床の中に書き込まれたり、壁と重なったりすれば、分子レベルで体が潰れる。だから、僕の頭の中で膨大な演算をして『安全な書き込み先』を確保しているんだ」


アイクは計算式を簡略化して書き込みながら解説する。



「つまり兄様たちの門が決められた場所にしか飛べないのは、その計算を事前に済ませたレールの上を歩いているだけ。……不自由で、退屈だよ」


リーンハルトの顔から血の気が引いていく。アイクが語っているのは、国家が独占する転移技術を、この少年が鼻歌混じりに蹂躙しているという事実だった。



「……アイク。君は、自分が何を言っているのか分かっているのか?」


リーンハルトの声が震えている。恐怖か、それとも学究的な興奮か。

アイクはその震えを、冷めた目で見つめていた。


「わかってるよ。……僕には、世界がその『格子グリッド』でできているようにしか見えないんだから」


アイクはそれ以上語るのをやめ、背もたれに体を預けた。

リーンハルトの驚愕も、ハンネスの殺気も、今のアイクには遠い世界の出来事のように感じられた。


リーンハルトは、アイクが書き殴った転移の数式を、まるで劇物を眺めるような目で見つめていた。その震える指先が、アイクが懐から取り出した「四面体の魔導通信機」へと向けられる。


「……では、この通信機も同じなのか? なぜ、こんな掌サイズで声が届く」

「転移が『書き換え』なら、通信は情報の『同期』だよ」


アイクは四面体の魔導通信機を指先で転がした。


「声は空気の振動でしょ? この四面体は、その振動を魔素の揺れ――『波』に変えて放つ。で、受け取る側も同じ波に合わせれば、声が再生される。単純でしょ?」

「単純……だと? 凄まじい精度の調律が必要なはずだ」

「あはっ、やっと気づいた? 四面体は内部で波を響かせるための共鳴室なんだ。兄様たちの研究は、映像まで送ろうとして情報量が多すぎる。欲張るから魔石が熱暴走するんだよ。声だけに絞れば、こんなに小さくできるのに」

「情報の……圧縮……」


リーンハルトの脳内で、これまでの帝都魔導学が音を立てて崩れていく。

彼らが「魔力の強さ」で解決しようとしていた問題を、アイクは「情報の制御」という次元で、あまりに鮮やかに解決していた。


「アイク……君は、これを軍に献上するつもりはないのか?」

「嫌だよ。面倒くさい。どうせ、僕がここで話さなければ、一生知られることのない技術だ」


アイクの言葉には、どこか寂しげな拒絶が混ざっていた。


てっきり、「お帰りなさい、愛しい弟よ」といった、吐き気を催すような家族ごっこを強要されるとうんざりしていたのだ。だが、目の前の兄が提示したのは、かつてと変わらぬ「純粋な知的好奇心」という名の敬意だった。

その扱いに、アイクは呆気にとられると同時に、喉の奥が微かに疼くのを感じていた。


茶会の終盤。傾きかけた陽光が、執務室を浮遊する埃を金色の粒子へと変え、静謐なダンスを踊らせている。

リーンハルトが、ふっと慈しむように表情を和らげて言った。


「……今日はこの辺にしよう。アイクはまだ、家族としての扱いを望んではいないだろうからね」

「え……?」


アイクは、思考の歯車が砂を噛んで止まったような衝撃を受けた。

心臓が、ドクンと不吉な音を立てて胸郭を打つ。その振動は、アイクが内側に築き上げてきた「氷の城壁」に、修復不能な亀裂を走らせた。

驚くアイクに、リーンハルトは悪戯っぽく、しかしどこまでも優しく微笑む。

「転移術式の話をした時、君、ひどくホッとした顔をしていたぞ。……気づいていなかったのか?」


(――嘘だ)


アイクの背筋を、氷の刃で撫でられたような寒気が走り抜けた。

計算ミス? いや、そんな生易しい概念ではない。

世界を規定していた前提条件そのものが、足元から崩落していく。

血の一滴、筋肉の震え一つまで演算に含め、完璧な「怪物」を演じてきたはずだった。サキの死という地獄の淵に立たされた時でさえ、絶望の深さすらも支配コントロールの一部だったはずなのに。


(見られていた? 僕の……中身を?)


胸の奥から、得体の知れない「未知」が這り上がってくる。

それは暗い深淵から自分を覗き込む「巨大な瞳」に対する、本能的な恐怖だった。

自分という存在が、自分で制御できない部分から漏れ出し、他者に観測され、定義されてしまった。

その事実は、アイクにとって死よりも残酷で、耐え難いほど恐ろしかった。


(なんで、なんで、なんで……ッ)


視界が歪む。

探し物はここにあるとオアンネスは言った。だが、それは力でも、謝罪でもなかった。

アイクは、自分が求めていた「救い」が、自分の知っている言語――「効率」「取引」「支配」――のどこを探しても見当たらない無力感に、激しい眩暈を覚える。

このエラーをどう処理すればいい?

修復しなきゃいけない。いつも通り傲慢に笑って、この場を盤面ごと焼き払わなければ。


なのに、指先は鉛のように重く、非力な子供のように椅子に縫い付けられて動けない。

その時、脳裏をよぎったのは、通信機越しに響いたオアンネスの、静かな声だった。


『……何かあったら、助けてと言えばいい』


(そんな、論理の欠片もない不格好な言葉で、何が助かるものか)


必死で拒絶しようとする。だが、今のアイクの脳内には、この異常事態を打開するための数式が、ただの一行も残っていなかった。


真っ白になった思考の果てに、その不格好な言葉だけが、暗い海に浮かぶ唯一の灯火のように見えた。


――頭の中で、何かが、透明な弦が弾けるような音を立てて切れた。


アイクは、自分でも驚くほど無防備な、剥き出しの瞳で兄を見上げた。

口を開く。喉がひきつり、声帯が意志を裏切って震える。


「……兄様。……たすけて」


それは、今まで彼が積み上げてきたどんな傑作な嘘よりも頼りなく、そしてどんな真実よりも切実な、子供の悲鳴。

脆く、壊れかけた陶器が床に散るような、掠れた調べだった。

――ぁ。


一瞬、室内を物理的な質量を伴った静寂が支配した。

窓の外を横切る小鳥の羽音さえ、今のアイクには届かない。世界が、この身勝手な祈りを処理するために一時停止したかのようだった。

襲いくる羞恥。返ってこない返答への恐怖。アイクは慌てて、仮面を貼り付け直そうと口を開く。

引き攣った筋肉を無理やり動かし、歪な笑顔を作ろうとした。


「なーーんてね! じょ……」


「助ける」


遮るように放たれたのは、短く、迷いのない、そして祈りの成就のような肯定だった。

まるで、難解な数式の解が、たった一つの美しい真理へ収束した時のような、軽やかな響き。



その言葉が、まずアイクのひび割れた心に染み渡った。

ついで、彼は信じられないものを見るように、大きく目を見開いた。

リーンハルトは椅子から身を乗り出し、真っ直ぐにアイクを射抜いていた。その瞳にあるのは、研究者の熱ではない。一人の「兄」としての、静かで揺るぎない覚悟。


アイクが放った「助けて」という、演算エラーそのものの無防備な信号を、彼は汚濁おだくごと、その腕の中に真っ向から受け止めたのだ。


「助ける。当たり前だろう。……それで、アイク。君は何に困っているんだ?」


アイクは、言葉を失った。

目の前のリーンハルトは、アイクの手がどれほどの血に塗れているかを知っている。自分が帝国を飲み込む「化物」であることも、先ほどの対話で論理的に理解したはずだ。


それなのに、リーンハルトはアイクを無条件に、何の代償も求めずに肯定してしまった。

アイクの視界が、一瞬だけ激しく揺らぐ。

──理解できない。

この光景は、彼の盤面には存在しなかった。

取引でもなければ、同情でも、計算でもない。


(なんで……)

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