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3

皇都の港に降り立った瞬間、アイクの視界は情報の濁流に飲み込まれた。

歓迎の音楽、色鮮やかな旗、そして――反吐が出るほど醜悪な嘘の数々。

迎えの馬車に揺られながら、アイクは窓の外を流れる景色を死んだ魚のような目で見つめていう。李玄ら使節団の主流派は別の馬車で先行し、アイクとウーヴェを乗せた馬車は、石畳を跳ねながら皇居へと向かっている。


「……最悪だ。帰りたい。ねぇウーヴェ、今からこの馬車を港へ引き返させてよ。今ならまだ間に合う」

「ええっ!? 何言ってるんですか殿下、着いたばっかりですよ。せっかくの異国なんですから、もう少しワクワクしてくださいよ」


アイクは返事すら億劫そうに、窓の外を指差した。


「……ワクワク? どこが。面倒ごとしか見えない。ああ、これ、ヴェロニカにも連絡取らないとダメじゃん。僕の三日間を返して」

「穏やかでいい街じゃないですか。なんでそんなに不機嫌なんです?」


ウーヴェの呑気な声に、アイクの思考が凍りついた。ゆっくりと首を回し、隣に座る少年を凝視する。その瞳には、まるで「空は青い」と言われて「空って何?」と返された時のような、根源的な恐怖と驚愕に揺れていた。


「……え? ウーヴェ、本気で言ってるの? 冗談じゃなくて?」

「いや、マジですけど。僕には活気のある港町と、国主様を悼む半旗しか見えないですよ」


アイクは目を揺らす。呟くように言った。


「……本当に、わからないんだ。嘘でしょ。目の前に、これだけ嫌っていうほど『正解』が転がってるのに。……みんな、目隠しでもして生きてるの?」

「……殿下、お願いですから凡人にもわかるように説明してください。また僕の知らないところでパズルを解き終わってるんでしょう?」


アイクは吐き気をこらえるように深く溜息をつき、馬車の窓を叩いた。


「……教えるも何も、2の次は3でしょ? 僕はそれしか言ってないよ」

「いや、その『2』がわからないんですよ。1の次がいきなり100になってるんです」

「……はぁ。いい? まず、あそこの門番の服を見て。半旗が掲げられているのに、喪服()じゃなくて古い祭事服()を着てる。これが『1』だ」

「祭事服……? ああ、言われてみれば少し派手ですね。それがどうしたんですか?」

「死を悼む場で、生の祝いを纏ってる。つまり()()()()()んだよ。国主の崩御は嘘。李玄を呼び戻すための口実だ。同時に、()()()()()()()()()()()()()()ということでもある。これが『2』だ」


ウーヴェは目を白黒させた。


「い、いや、飛躍しすぎですよ! 服の色だけでそこまで断定しますか普通!?」


アイクは眉間にシワを寄せ、説明のハードルをさらに下げた。馬車が市場の横を通り抜ける。その風景の中から、アイクは正確に拾い上げていく。


「……じゃあ、あそこの倉庫に積み上げられている八角形の木箱は? あれ、カルシス製の軍用保存食だよ。この暑い時期に、葬儀の準備中に、他国の兵糧を大量に運び込む。これを『3』と呼ぶなら、答えはもう一つしかないだろ。――軍事同盟だ。彼らは今まさに、軍を動かそうとしてる」

「ぐ、軍事同盟……」


アイクの声は次第に冷たくなっていく。


「馬鹿げてる。……お父様とヴェロニカに連絡取らなきゃいけなくなった。あぁ本当に下らない。こんな低レベルな政治ごっこのために、僕の貴重な演算リソースを割かなきゃいけないなんて、屈辱以外の何物でもないよ」

「……そんな国家間の問題をどうしてヴェロニカ枢機卿に?」


ウーヴェの問いに、アイクはひどく億劫そうに、けれど流れるように答えを吐き出した。


「ヴェロニカはカルシスの裏世界と繋がっているからね。動向を探らせるのにちょうどいい」


アイクは隣のウーヴェがまだ飲み込めていないのを認めると、溜息をついて解説を続けた。


「名前だよ。……『ヴェロニカ』なんて響き、帝国風にならされた呼び方だ。自分の名前を発音する時だけ、母音がわずかに後ろに下がる。本当の音はもっと長い――『ヴェローニカ』。カルシスの音だ」


アイクはチラリとウーヴェを見た。話について来れているかを確認し、続きを話始めた。


「それに、彼女が指先で刻むリズム。あれ、カルシスの裏路地で流行った博打打ちの拍子ビートだ。……極めつけは、彼女が以前僕に茶を淹れた時の手の動き。指の第二関節を内側に巻き込むようにして持った。あれはカルシス特有の作法だ。……帝国語は完璧だけど、染み付いた作法までは消せてない」


ウーヴェはもはや、戦慄を通り越して呆然とするしかなかった。

指の関節の角度から、帝国の枢機卿の泥塗れの過去までを逆演算したというのか。


「……殿下。……なんでそんな、他国の路地の博打のリズムなんて知ってるんですか? さすがにキモいですよ、それ」

「……知識が積み重なってるだけだよ。習慣もクセも、泥の路地で生き延びるための動作も。文字通り見てきたわけじゃない。でも、数多の記録から人間の行動原理を抽出すれば、自然と規則は透けて見える。ヴェロニカの動きは、そのルール通りだった。ただそれだけだよ」


ウーヴェは言葉を失った。

膨大な記録から抽出した人間の行動ルール。それを目の前の生身の人間と一瞬で照合する。それはもはや「推理」の領域ではなく、生きた演算処理の所業だ。


「逆になんでわからないの……ねぇ、ウーヴェ。なんでみんなは、一ミリ先の未来すら計算できないの? なんで、こんなに簡単な答えをいちいち教えてあげなきゃいけないの?」


アイクはまた、泣きそうな顔をした。

その瞳には、自分の知能が周囲から隔絶されていることへの、根源的な恐怖と孤独が滲んでいた。


「……本当に、わからないんだ……? 一から十まで、一文字ずつ丁寧に数式にして、耳元で叫んであげないと、君たちは、一歩先にある崖にすら気づかないんだ……」


アイクの声は震えていた。

サキを失い、家族の愛に触れ、ようやく心を認められるようになったアイクとって、この情報の断絶は、暗い深海にたった一人で放り出されたような恐怖だった。

見えすぎてしまう。そのせいで、誰とも同じ景色を共有できない。


そんなアイクを、ウーヴェはしばらく黙って見つめていたが、やがて、我慢しきれないといった様子で「ぶっ」と吹き出した。


「……あはははは! なんですかそれ! 殿下、顔、最高にひどいですよ!」

「……っ、何がおかしいの。僕は、真剣に絶望してるんだけど……!」


アイクが顔を真っ赤にして睨みつけるが、ウーヴェは腹を抱えて笑い続けている。


「いや、だって! 殿下が『目の前の木箱を見ろ』って言うから、僕、必死に『あれはきっと宝石箱だ、そうに違いない!』って自分に言い聞かせてワクワクしてたんですよ!? なのに軍用食? どっかの国の八角形の箱? 殿下、それ、ただの木箱マニアの意見ですよ!」


あまりに呑気に笑うウーヴェにアイクが言い返す。


「マニアじゃない、観測結果だよ! 君、今の僕の話聞いてた!? 」

「聞いてましたよ! でもね、殿下。僕ら凡人っていうのは、実際に大砲が火を噴くまでは『今日も海が青いなー』ってスープ飲んでる生き物なんです。それが僕らの、幸せなバグなんです」


ウーヴェは笑いすぎて涙の出た目を拭うと、腰に手を当ててアイクを見下ろした。


「いいですか? 殿下。見えるからって、全部一人で背負う必要なんてないんです。殿下が『崖がある』って言って、僕が『えー、どこどこ?』って言いながら、殿下の服を掴んで止まってあげる。それで解決じゃないですか」

「……っ、解決になってないよ。僕が、君をずっと引っ張ってなきゃいけないってことでしょ」

「そうですよ! だけど僕は僕なりにしか世界を見れない。だからこうして呑気に笑えるし、殿下のお世話してるんです。……殿下がどれだけ賢くても、僕のこの『バカな図太さ』だけは計算できないでしょ?」


ウーヴェはニカッと、一点の曇りもない笑顔をアイクに向けた。


「殿下も凡人の目線を体験しましょう?ほら。窓の外。さっきから焼きたての魚のいい匂いが馬車の中まで入ってきてる。――今夜の晩餐はきっと魚でしょう。」


アイクは、呆れたように口を開けた。

自分は戦争という巨大な盤面を見ていたのに、ウーヴェは、その盤面の上で「魚を食おう」と言っている。

演算不能。論理破綻。

けれど、その救いようのないバカが、アイクの胸に詰まっていた冷たい塊を、すーっと溶かしていくのが分かった。


「……ははっ」


アイクの唇から、乾いた、けれど元気な笑みがこぼれた。


「……やっぱり、ウーヴェは馬鹿だね。本物の、救いようのないバカだ」

「おっ、元気出ましたね! 最高の褒め言葉です!」

「……死刑だよ。減給じゃなくて、絶対死刑。……でも、まぁ。魚くらいは、付き合ってあげてもいいけど」


アイクは乱暴に目を拭い、再び前を向いた。

相変わらず港には答えが溢れている。けれど、隣で「お腹空きましたねー」と暢気に笑うバカの存在が、アイクにとっての救いとなっていた。


「よし、行こう。……ウーヴェ、僕の服、離さないでよ。君、放っておくと本当に崖から落ちそうだから」

「合点承知です、殿下!」





宿舎となる貴賓館は、過剰なほど豪華に装飾されていた。

李玄らとの形式的な挨拶を最小限の労力で切り抜け、アイクは与えられた自室に入るなり、深々と椅子に身体を沈めた。


「……まずは、ヴェロニカとお父様に連絡。それから……」


アイクは指を折り、脳内の盤面を整理していく。ウーヴェが用意した茶を一口飲み、少しだけ視線を落とした。


「ウーヴェ。僕たちがここでやることは二つ。……いや、三つだ」

「聞きましょう。その恐ろしく効率的な解決策とやらを」

「一つ目は、この『葬式』という名の茶番に全力で乗っかること。その際に、同盟の進捗と国内の反乱分子を洗い出す」

「……不機嫌だったのに、やる気は満々なんですね」



アイクは不快そうに鼻を鳴らした。そうして不本意だと言う不満を全面に出して言う。


「二つ目は、カルシス王国の狙いを潰す。彼らの軍事同盟を破綻させる。これはお父様とヴェロニカの協力が不可欠だけど……まぁ、五日もあれば終わる」


そこでアイクは言葉を切り、茶菓子を無意味に弄んだ。


「……あとの一つは、別に言うまでもなくわかる。」

「いや、わかりません。さっき馬車の中で、僕らには絶望的なまでの視覚格差があるって証明されたばかりじゃないですか」


ウーヴェはアイクの正面に回り込み、真剣な目で彼を見た。


「僕は殿下の手足であって、ブレーンじゃない。殿下が何を求めているのか共有してくれないと、僕は殿下をより動かしやすくするための『良い手足』になれないんです。……三つ目は?」


アイクは露骨に視線を逸らした。頬が、みるみるうちに耳の付け根まで赤く染まっていく。それを隠すように、声だけは努めて淡々と、氷のように冷たく響かせた。


「……現国主の娘であり、僕の母親である人物に接触する。彼女はこの国の重要人物であり、盤面を動かすための強力なカードだ。彼女をこちら側に引き込むことは、皇国の内政を揺さぶるための最も合理的で、最短な手段なんだ。……以上。……何か質問は?」


沈黙。

アイクは顔を上げられなかった。ウーヴェの視線が、チクチクと突き刺さる。


「……おや?」


ウーヴェの、ひどく間の抜けた、それでいて確信に満ちた声が響いた。


「おやおや? 殿下。今の、もしかして……」

「……っ、何。論理的な帰結だって言ってるだろ」

「ええ、論理的ですねぇ。真っ赤な顔をして、震える声で言うほど、とーっても合理的な作戦ですね。……つまり、ただの『お母さんに会いたい』じゃないですか! 殿下、素直じゃないなー!」

「……っ、僕は、最適な駒の配置について言及しただけで――」


「おー、こわいこわい。お母さんに会いたいお子ちゃまが、怒ってる。でも、安心しましたよ、殿下にも、僕にわかるレベルの目的があったんですね。お任せください。その『強力なカード』とお話しできるよう、僕も精一杯働きますから!」

「……うるさい。減給するから!!」


アイクは不服そうに口を尖らせ、顔を隠すように再び茶を啜った。

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