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始まりは、アイクの感情が、許容量を超えて決壊した日だった。
「アイク。玲凛の、お前の母のことだが……」
「知ってる」
どこか言い難そうに切り出した皇帝の言葉を、アイクは鋭く遮った。
夕刻の陽光が差し込む広間で、アイクは充血した目をこすりながら、激しく昂った瞳で父を睨み上げる。
「さっき知った。李玄っていう、お母様の弟に会ったから」
「……それだけで、わかるものなのか」
驚愕に目を見開いたのは第二皇子だ。その戸惑いの表情を見た瞬間、アイクの中で張り詰めていた糸がブチリと音を立てて切れた。
「僕からしたら、なんでわからないのかがわからないんだけど!!」
言い捨てたアイクが、ダンッ! と床を強く踏み鳴らす。
周囲が畏怖した総帥も面影は、今のアイクには微塵もなかった。ただひたすらに、自分の理解が他人に届かないことへの、暴力的で純粋なもどかしさが、アイクの胸の中を駆け巡っている。
「みんな、馬鹿だ……! なんで、一を見て、全部わからないの? 李玄がここにいることも、僕とお母様の顔が似ていることも、メイドが言ったことが全部計算に合わないことも……! なんで、いちいち言わないと伝わらないの!?」
「アイク、落ち着け。順を追って――」
皇帝がなだめるように手を伸ばすが、アイクはその手をパシッと払いのけた。
「順を追ってなんて無理! 時間の無駄! なんでそんな無駄なことさせるの!? 駒のくせに、駒のくせに……! お父様もお兄様も、みんな僕よりずっとわかってないくせに……!」
喉を震わせ、バラバラになった感情を叩きつける。あれほど冷徹だった口調は、論理もなにもない口調へと成り下がっていた。
その瞬間、アイクの瞳から急速に色が抜け落ちた。灰青色の瞳を塗り潰したのは、燃え盛るような、けれどどこか凍てついた蒼だ。
それを見た皇帝の手が、一瞬止まる。アヴェラルトもリーンハルトもクーリルトも、見たこともない弟の「色」に言葉を失った。
目から勝手にボロボロと雫が溢れるが、アイクはそれを袖で乱暴にぐいぐいと拭う。泣きたいわけじゃない。ただ、腹が立って仕方がないのだ。
「わかってよ! なんでわからないの!? お母様が、僕を愛してるなんて……そんなの、データにはなかった! 僕が捨てられたのは、僕がいらない子だったからでしょ!? そうじゃないと……僕が今までずっと、お母様を嫌いになろうとした努力が、全部、無駄になるじゃないか!」
「アイク……」
アヴェラルトが絶句する。アイクの孤独さの根本的理由がわかったからだ。
一を知って十を悟ってしまうアイクは、凡人がニから九までのプロセスを踏まなければ理解にたどり着けないことを、本能的に理解できていない。
今のアイクはあまりに頭が良すぎたがゆえに、説明されなければ愛に気づけなかった自分自身の愚かさと、それによって生じた過去の計算ミスを認められずに矛盾する感情が暴れている。
「僕の計算は完璧だったはずなんだ! なのに、なんなのこれ! 辻褄が合わない! バグだらけだ! ……馬鹿! もういい、みんな嫌いだ!」
アイクは顔を真っ赤にして、激しく地団駄を踏んだ。
論理は支離滅裂。他人を馬鹿だと罵りながら、その馬鹿な相手に「正解を教えろ」と詰め寄る矛盾。
「なんで……なんで! なんでわかってくれないの! 僕がこんなに言ってるのに、なんでみんなはわかんないの! 馬鹿! みんな馬鹿だ!」
拭っても拭っても溢れてくる涙に、アイクは苛立ちを募らせる。
これまで積み上げてきた数式も、冷徹な仮面も、すべてが崩れ去った後に残ったのは、ただ計算外の愛という事実にパニックを起こしている、一人の幼子だった。
皇帝は、そのあまりに人間臭いアイクの醜態を、逸らさずに見つめていた。
そして、深く息を吐き出すと、ソファに深く腰掛けた。
「……アイク。わかった。お前の言う通り、私たちは馬鹿なのだろう」
皇帝の静かな声が、アイクの喚き声を遮った。
アイクは肩を怒らせたまま、ヒックとしゃくり上げて父を睨む。
「玲凛のことだが……二年前、彼女はトゥーリ皇国へ帰った。代わりに人質としてこの帝国へ来たのが、お前が会った李だ。だが、本国から報せが入った。トゥーリの国主が崩御したと」
皇帝は淡々と事実を並べる。アイクの激情に流されず、新たな「変数」を提示するように。
「李玄は、国主の葬儀のために一時帰国することになる。……アイク。皇帝の名代として一緒に行け」
アイクの動きがピタリと止まる。
「母に会え。……李玄がいて、お前がいる。直接行って、その目で……玲凛という不合理な答えを見てこい」
「……っ、……いかない……」
アイクが、袖で顔を隠したまま唸るように言う。
「嫌だ……。あんな、わけわかんない、ところ……。おかあさまなんて、知らない……。なんで、僕が、わざわざ……」
「行きなさい。……だがこれは命令ではない。提案だ」
皇帝の瞳に、強い光が宿る。それは慰めではなく、挑戦状を叩きつけるような眼差しだった。
「お前は、私たちのことが馬鹿だと言ったな。ならば、その馬鹿な家族に囲まれてここで一生を過ごすか? それとも、お前のその頭で、向こうにある『正解』を証明しに行くか?」
アイクは袖を下ろした。
目は赤く腫れ、鼻水も出ている酷い顔だったが、その瞳の奥には、確かな対抗心という熱が篭っていた。
わからないまま終わるなんて、彼の美学が許さない。
「……いくよ。いけばいいんでしょ……!」
強がりにもなっていない、震える声。
それを見つめる三人の皇子たちの目は、畏怖ではなく、どこか呆れと、そして異次元の天才の弟という存在のどうしようもなく苦い納得に満ちていた。
「……ふん。せいぜい、向こうで恥をかかないようにしろよ。泣き喚くのがお前の『外交』だと思われたら、帝国の名折れだ」
アヴェラルトが鼻を鳴らす。
アイクは「馬鹿兄様!」と子供じみた罵倒を投げ返したが、その足取りは、先ほどよりは真っ直ぐだった。
こうして、アイクは「第四皇子」としての肩書きを背負わされ、李玄と共にトゥーリ皇国へと向かうことになった。
ウーヴェの絶叫が夜の街に溶けて消えた、翌週。
帝都の港には、朝靄を切り裂くようにして、トゥーリ皇国の使節船が停泊していた。翡翠の装飾が散りばめられた船体は、朝日を浴びて鈍く光っている。
アイクは、第四皇子としての豪奢な装束を身に纏い、重苦しい金糸の刺繍を疎ましそうに揺らしながらタラップを見上げていた。その背後には、一睡もできずに目の下に深い隈を作ったウーヴェが、壊れ物を運ぶような手つきでアイクの私物と、膨大な量の魔導書を抱えて控えている。
「……総帥、いえ、殿下。本当に行くんですか。その、李玄様という方と……二人きり、ではないにせよ」
「二人じゃないよ。君も来るんだから」
「それが一番の不安要素なんですけど! 僕、外交なんて分かりませんよ!?」
悲鳴に近いウーヴェの嘆きを聞いて、アイクは不意に足を止め、振り返った。
その瞳には、先ほどまでの不機嫌さはなく、純粋な眼差しだった。
「僕がウーヴェといきたかったんだから、いいでしょ。……それにウーヴェ、忘れてないよね?」
その言葉は、甘えるような子供の響きでありながら、同時に総帥としての命令でもあった。自分の『手足』として動くのは君なのだという命令。
ウーヴェは一瞬、息を呑んだ。だが、すぐに覚悟を決めたように真面目な顔へと引き締め、深く、一度だけ頷いた。
「……ええ。任せてください」
その返答に、アイクは満足げに、そして年相応の少年のようにあどけなく微笑んだ。
アイクは再び前を向き、船の甲板に立つ一人の男――叔父である李玄を見据えた。
李玄は姉・玲凛に生き写しのアイクを、慈しむような、けれどどこか悲劇の予兆を感じさせる複雑な眼差しで見つめ返している。
アイクの手元には、皇帝から託された、帝国の親書。
そして懐には、夜天の檻の総帥として、オアンネスへ残してきた「楔」の冷たい感触があった。
(……オアン。裏切るなら、綺麗にね)
自分のいない帝国で、あの男が何を画策するか。
アイクの天才的な演算は、すでにオアンネスがただの留守番で終わらないことを、回避不能な確率として弾き出している。
けれど、今のアイクにとっては、自分の世界を一度壊してしまった母という名の不確定要素を解明することの方が、どんな盤面を支配することよりも優先度が高かった。
アイクは一度も振り返ることなく、異国の地へと続くタラップを力強く踏み締めた。
トゥーリ皇国の使節船が波を切り、帝都の港が遠ざかっていく。
豪華な装飾が施された特等客室は、焚かれた香の香りと、アイクが持ち込んだ古い紙の匂いが混ざり合っていた。
「……殿下、少しは休んでください。出港してからずっと計算ばかりじゃないですか」
呆れたような、けれどどこか保護者のような口調で言ったのはウーヴェだ。16歳という若さながら、彼は手際よくアイクの私物を整理し、不備がないか客室を検分している。
アイクはソファに深く沈み込み、分厚い魔導書を広げたまま、視線も上げずに答えた。
「やーだ。トゥーリに着くまでに、この術式の記述言語と、あっちの古い方言の相関関係を解いておかないといけないんだから。それにトゥーリ語も念の為さらっておかないと」
「だからって、朝食も抜きで……。はぁ、これだから十歳児は」
ウーヴェは慣れた手つきで、給仕が置いていった冷めかけのスープをアイクの鼻先に突きつけた。
「飲んでください。倒れられたら、僕が陛下に殺されます。……いいですか、殿下」
「……殿下って呼ぶの、やめてって言ったのに」
「ここは皇国の船ですよ? 壁に耳ありって言うんです。……僕だって、つい数日前まで総帥が皇子様だなんて夢にも思ってなかったんですから、勘弁してくださいよ」
ウーヴェは16歳らしい快活さを残しつつも、周囲への警戒を怠らない。
彼は「夜天の檻」においても、狂気に走りがちな連中をその常識と実務能力で宥めてきた。アイクが彼を今回の旅に指名したのは、その有能さを信頼しているからに他ならない。
アイクは不満げにスープを一口啜った。
アイクはふと、船室の揺れの中で、出港前夜のことを思い出していた。
準備に追われる中、リーンハルトに呼び出されたあの夜。兄の表情は、いつになく厳格で、どこか正体不明の何かを恐れているかのようだった。
「アイク。……お前が以前、僕に言った『前世の記憶』についてだが」
唐突に切り出された言葉に、アイクは手にしていた魔導書を落としそうになった。
「……え?」
呆けた声を上げたアイクを、リーンハルトは深い憂いを含んだ瞳で見つめていた。
アイクにとって、あの「前世がある」という主張は、孤独のあまりに自分を異端だと定義したかった、今となっては消し去りたいバグのような記憶だ。
「あの時はお前の知識の拠り所として安直に飛びついてしまったのだが。よくよく考えたんだ。」
「――あぁ、あぁ! もういい、言わないで! 何もなかった、あれは全部間違いなんだよ!」
リーンハルトが自論を述べるより早く、アイクは顔を真っ赤にして叫んだ。
羞恥心で脳が沸騰しそうだった。あの時は、世界への疎外感を正当化するために「自分はこの世界の人間ではない」という設定に縋り付いていたのだ。
「あれは……ただのバグ! 情報の過負荷による一時的な幻覚! データの混濁! だから、その、……僕もどうかしてたんだ。忘れて。今すぐその記憶を消去してよ!」
「アイク? ……だが、あんなに必死に……」
「必死だったのは、……! ……とにかく! もうその話は、この世から消滅したの! 分かった!? 二度と、その単語を口にしないで!」
地団駄を踏みそうな勢いで捲し立てるアイクに、リーンハルトは呆気に取られ、それから――ふっと、毒気を抜かれたように笑った。
「……そうか。ならいい。あれが間違いだと言うのなら、今ここにいるお前こそが、正真正銘の僕の弟だということだな」
「……っ、当たり前でしょ!」
恥ずかしさを隠したくて逃げるように飛び出したあの日。
あれがアイクにとっての「異邦人」としての自分に、完全に決別を告げた瞬間だった。
「……殿下? なんですか、急に顔を赤くして。スープ、熱すぎました?」
ウーヴェの声で、アイクは現実に引き戻された。
「……なんでもない。ちょっと、昔のバグを思い出しただけ。消去不能な、最悪のゴミデータ」
「ゴミ、ですか……。まあ、殿下の頭の中は四六時中そんな感じなんでしょうけど。ほら、飲んでください」
アイクは逃げるようにスープを口に含み、羞恥心を誤魔化した。
今でも思い出すと死にたくなる。けれど、もう自分には「前世」という設定はもういらない。
「……ウーヴェ」
「はいはい」
「……僕、今は変なこと言ってないよね? おかしなこと、口走ってない?」
不安げに見上げてくるアイクに、ウーヴェは少しだけ目を丸くした。それから16歳らしい意地悪な笑みを浮かべた。
「ええ、今は。……でも、そのうちまた何か言い出したら、僕が責任を持って『はいはい殿下、寝言は寝て言ってくださいね』って止めてあげますから。安心してください」
「……減給。ウーヴェ、帰ったら絶対に減給。」
「ええええ勘弁してくださいよ」
ウーヴェは知っている。減給とかいいながらも実際には仕事上のミス以外では決して減給されていないことを。
軽口を叩き合いながら、アイクは再び魔導書に目を落とした。




