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第二部です!
窓外には、裏路地の湿った空気と、どこか鉄錆の匂いが混じる夜の帳が下りていた。
一ヶ月という空白は、この部屋の主にとっては一瞬の停滞に過ぎなかったが、残された者たちにとっては、均衡が崩れる寸前の危うい時間だった。
重厚な執務室のデスクを囲むのは、帝国の影を分かつ四人の枢機卿。
盤枢卿ヴェロニカ、暴枢卿ゲルフ、檻枢卿オアンネス。そして、葬枢卿ヴァルター。
彼らの視線は、前方に座る幼い総帥――アイクへと注がれている。
「一ヶ月ぶりだね。全員が集まるのは実に三ヶ月ぶりだ。さて、銀の歯車を落とすよ」
なんてことないようにアイクが告げる。
ヴェロニカは当然という顔をし、ゲルフは好戦的な目を輝かせ、オアンネスとヴァルターは表情を変えない。四者四様の気配が、アイクの一号令によって再び「夜天の檻」という巨大な歯車を噛み合わせる。
「まぁ正直、葬枢卿ヴァルターの潜ませている手駒分だけで内部崩壊はできるんだけど。それだと夜天の檻が制圧した空気が出せないからね。ゲルフ、明後日、思い切り暴れておいで」
「承知」
ゲルフが、腹の底に響く短い声で答える。
「ヴェロニカ、ヴァルターから詳細は聞いてると思うけど、この資料もあげよう。機密情報をすべて抜き取ってきたんだって」
差し出されたのは、ウーヴェが命懸けで持ち帰った紙束だ。
「この件はすべてヴェロニカに一任するよ」
「了解。隅々まで解析させてもらうわ」
一通り実務的な指示を終え、アイクは椅子の背に深く体を預けた。
そこで不意に、何かに思い至ったように付け加える。
「じゃ、あとはもう話すこともないし。……あ、そうだった。どうでもいいんだけど、夜天の檻は皇室公認の組織になったから。予算が下りるよ。よかったね」
室内の空気が、物理的な質量を伴って凍り付いた。
一番の爆弾だった。
叫び声も、動揺も起きない。あまりに常識を逸脱した言葉に、彼らの思考回路そのものがショートし、呼吸すら忘れて硬直したのだ。
ただ一人、傍らに立つオアンネスだけがすべてを知っていた。
「おめでたい。いいことじゃないか」
楽しんでいるのが丸わかりの、含み笑いを伴った声。その音で、ようやく凍りついた時間が動き出す。
「は……? え? 総帥、なんで……っ!?」
再起動したヴェロニカが、喉を引き攣らせて叫び声を上げた。
「なんでって言われても。……いいことじゃん。メリットしかないし」
「いや、メリットとかそういう次元じゃなくて! 総帥、あの一ヶ月で一体……何をしたのよ」
ヴェロニカの問いに、アイクはわずかに眉を寄せ、苦虫を噛み潰したような顔で視線を逸らした。
脳裏をよぎるのは、皇帝の広い胸板と、鼻腔にこびりついた重厚な煙草の匂い。そして、あの一生消したい失態。
だが、その羞恥に濡れた沈黙を、部下たちは「語るも恐ろしい政治的断絶」と受け取った。
「……過程なんてどうでもいいだろう。結果は出した。……二度と、その話を僕に振るな」
アイクは吐き捨てるように言い放つ。
それは彼にとって、家族に泣いて縋り、絆されてしまった羞恥から来る、切実な拒絶だった。
だが、その声音に含まれた絶対的な拒絶の響きに、ヴァルターが眼鏡の位置を直し、冷や汗を流しながら独り言のように呟く。
「……皇室が、裏組織に公的予算を? ありえない。帝国の威信に関わる。……だが、事実として予算は下りる」
ヴァルターの瞳の奥で、高速の演算が走る。
ありえない現実と、目の前の「怪物」の実績。それらを繋ぐロジックは、たった一つしかない。
「……となれば、考えられる可能性は一つ。……総帥は、皇室の急所を握ったのか……? 帝国が、金で口封じをせざるを得ないほどの、致命的な何かを……」
実際、オアンネスがもぎ取ってきた条件には、銀の歯車の資産を帝国名義で差し押さえる権利なども含まれている。その「あまりに一方的な勝利」が、ヴァルターの推論を裏付ける。
「じゃあ、予算の件はヴェロニカ。君の裁量でいい感じに分配して。帝国軍の会計監査が入りそうになったら……あー、僕の名前を出して追い返せばいいから」
「え、ちょっ、そんなことしたら反逆罪で処刑されません!?」
「されないよ。問題ない。向こうもそういう契約だから」
平然と言い放つアイクに、ゲルフがゴクリと喉を鳴らした。
武力で制圧することしか知らぬ彼にとって、一国の主を、血も流さずに契約という鎖で縛り上げたアイクの所業は、もはや神の御業に等しい。
「……総帥。俺ぁ、あんたを信じてついてきて良かった。皇室を顎で使うなんて、裏社会の歴史を塗り替えちまったな」
「え? あご……? いや、そんなんじゃないけど……」
「わかっています、総帥。……この件は、枢機卿以上の最重要機密としましょう。外部には『特別な取引』とだけ公表します」
ヴァルターが重々しく締めくくり、他の面々も深く、沈痛なほど真剣に頷いた。
こうして、アイクが「家族に愛されて泣いた」という事実は、彼らの間では「皇室を徹底的に屈服させ、国家予算を実効支配した」という、帝国の歴史上最も凶悪で冷徹なクーデターの成果として完結したのである。
(……なんでみんな、そんなに怖そうな顔してるんだろう。予算が増えて嬉しいはずなのに)
アイクは不思議そうに小首を傾げたが、深く考えるのをやめた。
今、彼が何より優先すべきは、一刻も早く銀の歯車を叩き潰し、忙しい日常に戻って、あの温かすぎる記憶を「仕事」という名の演算で上塗りしてしまうことだった。
ウーヴェが以前と全く同じ手順で淹れ、無言で差し出してきた紅茶のカップが映った。アイクは無言でそれを手に取り、一口飲む。……味は、以前と寸分違わない。
「アイク、あちらには行かないのか?」
真実を知り、その上で事態を楽しんでいるオアンネスが、わざとらしく小首を傾げて言う。執務室に漂うのは、いつも通りの古い紙と魔素の残り香。
「やだ。僕には仕事があるからね」
アイクは視線を書類から一度も上げず、短く切り捨てる。
その筆致は、普段の精密な演算を彷彿とさせながらも、どこか切羽詰まった熱を帯びていた。皇宮で晒してしまったあの「無様な姿」を、一秒でも早く労働という名の砂に埋めてしまいたい――そんな子供じみた羞恥心が、彼の手を動かしている。
「そんなにアイクは仕事人間だったかな? なぁ、ウーヴェ」
「はいいい!? なんでここで僕に振るんですか、オアンネス枢機卿!」
突然の飛び火に、隣で書類を整理していたウーヴェが、ひっくり返った声を上げた。アイクは内心で舌打ちし、さらにペンを走らせる。
「なぜか知りませんけど、総帥が乗り気な上に僕の分まで片付けてくださって……。もう、感謝しかないんでどこにも行かないでください!」
猛烈な速度で捌かれていく書類の山に、ウーヴェはもはや感動すら覚えている。その時、アイクの懐にある魔導通信機が、震えるような明滅と共に電子音を鳴らした。
――まただ。
皇宮から戻って以来、他の「家族」からも、一日に一度は早く帰ってこいという催促の通信が届く。だが、特にこの周波数の主からの頻度は異常だった。
「総帥? 取らなくていいんですか?」
「うん。どうでもいい内容だからね」
「そんなこと言わずに取ったらいいんじゃないか? 仕事が進みすぎて、することがなくなってしまうぞ」
完全に愉快犯の顔をしたオアンネスを、アイクは鋭く睨みつける。だが、鳴り止まない通信音は、まるで主の執念を代弁しているかのようだ。アイクは観念したように息を吐き、乱暴にスイッチを入れた。
『――繋がったか。遅いぞアイク。演算を一つ間違えたかと思ったじゃないか』
スピーカー越しでもわかる、傲慢なまでに涼やかで、知的な熱を孕んだリーンハルトの声。
「……間違えるわけないでしょ。今、忙しいんだけど。何?」
『何、ではない。昨夜議論した第十七階梯の術式構成だが、あれから再計算した。お前の術理には一部、非論理的な飛躍がある。今すぐ戻ってきて私と検証し直せ。いいな?』
溢れんばかりの知識欲。アイクの才能を「弟」として、あるいは「最高の研究対象」として愛してやまない兄の強引な誘い。
「嫌だ。あれは飛躍じゃなくて、魔素の不確定要素を逆手に取った効率化だよ。リーンハルト兄様が頭硬いだけ。……じゃあね」
『待て! 切り上げるな! ああ、それとアベラルト兄上が新しい茶葉が入ったとかでお前の席を用意させている。父上も今夜は早く執務を切り上げるそうだ。お前の好きな……』
「はいはい、わかったから。気が向いたらね。切るよ」
アイクは、それが「世界を統べる皇帝」や「高貴な皇子たち」との会話だとは微塵も思わせない態度で、明日の天気でも確認するかのように淡々と通信を遮断した。
再び訪れた執務室の静寂。
ふと横を見れば、ウーヴェが彫像のように硬直し、手にした書類を床にぶちまけていた。
「……総帥」
「なに?」
「……いえ。あの。今、向こうの方……兄様、とか。父上、とか。それに今、リーンハルト……様って……」
ウーヴェの声は、震える弦のように頼りなかった。アイクはサインを終えた最後の一枚をウーヴェの胸元に押し付け、視線すら上げずに告げた。
「あぁ。言ってなかったっけ。僕、第四皇子だよ。予算も、実家に帰って話つけてきただけ。……あ、ウーヴェ。これヴェロニカに回しておいて。来週からトゥーリ行くから」
「………………は?」
アイクがようやく顔を上げると、そこには自分の人生で積み上げてきた「常識」という名の塔が、根本から粉砕された男の顔があった。
「……………………えええええええええええええッ!!?!?!?!?!?」
理解の範疇を完全に超えた絶叫が、夜天の檻の拠点中に、そして夜の街へと木霊した。




