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ザッ、と鋭い痛みが走った。
「あ……」
小さな声が漏れるのと同時、アイクの視界が大きく揺れる。曲がり角で衝突した相手は、何やら重厚な金属製の資料箱を抱えていた。運悪くその鋭利な角がアイクの額を正面から捉えた。
「っ……」
熱い。直後、視界が赤く染まり、生暖かい液体が鼻筋を伝って滴り落ちる。
アイクが朦朧としながら見上げると、そこには大量の書類を抱えた、背の高い人物が立っていた。おろした髪のせいで判然としないが、服装からして高貴な身分、それも男だろう。
「……っ! 大丈夫か!? すまない、急いでいたもので……ああ、血が出ているじゃないか!」
狼狽した相手が駆け寄る。その背後から、慌てた様子の従者が二人、遅れて走ってきた。
「リーンハルト殿下! ご無事ですか、書類が散乱して……黒髪の……!」
「書類はどうでもいい、集めておけ! 僕は一度塔に戻る。この子の手当が先だ」
「しかし殿下、その子は……」
「『人間』だ。怪我をしている。それ以上なにか問題が?」
リーンハルトの冷たい声に従者は口を噤んだ。
彼は考える間もなくアイクをヒョイと担ぎ上げた。
(…誘拐される時って、こんなに視界が揺れるものなのかな)
危機感よりも、ジクジクと湧き出る痛みよりも、睡魔が勝った。ふわあ、とあくびが出る。
もう夜の刻だ。ただただ、眠い。
アイクは先ほどの皇帝の愉快な顔を思い出していた。
※ ※ ※
「おかあさま?おかあさまがどうかしたのですか?」
「なに、そろそろ彼女のオリジニスだろう?贈り物でもと思ってね。何か知らないか?」
オリジニスーーそれは生誕した日を祝うもの。
アイクは皇帝の膝の上に乗っていた。
にこやかな笑顔で皇帝は言う。なんてことない動作で皇帝は、アイクの手を、正確には手首を握る。
ーー知るか、そんなもの。
アイクは思案するふりをして、昼間の光景を適当に引っ張り出す。
「おかあさまはお茶を好まれてます。緑茶、というらしいのですが、…ご存知ですか?」
ただ、玲凛妃のオリジニスなんてとうにすぎた。皇帝がそれを知らないはずがない。なにか引っ掛かった。
「なるほど。緑茶か。玲凛らしいな。…アイク、お前は母上のそばにいることが多いだろう。例えばお前が遊んでいる横で、母上が『見たこともない誰か』と話していたり、『読んだ後にすぐ燃やしてしまう手紙』を見たりしていないかな?」
皇帝の口調は優しいが、その質問は極めて具体的だ。
幼いアイクがその意味を理解できずとも、見たままの事実を口にすれば皇帝には十分な情報になる。
アイクは困ったように眉を寄せた。
「見たこともないひと?…んー。あ!時々お庭の木をちょきちょきする人みます。でも、おかあさまがお話ししているのをみたことないかも」
アイクは玲凛妃の周囲にいる「特定可能な人間」しか出さない。
「お手紙は、……あれお手紙なのかな?なんかね、くるくる巻いて絵などが書いているものを眺めてるのはみたことあります」
皇帝はわずかに目を細めた。
ーー子供の拙い説明からは「不審な接触はない」あるいは「子供の前で機密を扱うほど愚かではない」と判断せざるを得ないだろう。
「アイク、たくさん教えてくれてありがとう。お前はいい子だな。」
引き際が早い男は嫌いじゃない。
「あ」
声に出してしまってから、アイクは自分の失態に気づく。
「おや、まだ何かあるのかい?」
皇帝は見逃さず、蛇のように食らいついてくる。その執拗さは、やはり嫌いだ。
ーートゥーリ国とこの帝国の暦には、確か2ヶ月ほどのズレがあったはずだ。
アイクはただそれを思い出しただけだった。
アイクは首をかしげ、あどけなく言った。
「おかあさま、おとうさまがプレゼントをくれなかったって悲しんでいたから……お早めに渡したほうがいいんじゃないかな、って」
「プレゼント?」
皇帝は怪訝そうに眉を寄せた。
「玲凛のオリジニスなら来週だろう。祝宴の手配も済んでいるし、贈り物も手配済みだ。彼女が悲しむ理由がない」
「えっとね、たぶん、トゥーリの暦だと、2週間前だったから」
その一言に、皇帝の動きが止まった。
「……なんだと?」
「おかあさま、故郷のカレンダーを見てたから。帝国の日はまだだけど、トゥーリの日だと歳をとっちゃったのに、おめでとうって言われなかったのが寂しかったのかも」
これはアイクの法螺だ。だが、玲凛妃が故郷を懐かしんでいるのは事実。あり得ない話ではない。
皇帝は虚を突かれたように、瞬きをした。
「……暦の、差か」
皇帝は一瞬、目を細めた。
トゥーリの暦が帝国と異なることは、もちろん承知しているだろう。
「……そうか。玲凛は、まだトゥーリの暦を数えていたのか」
その声には、わずかな驚きと、何か複雑な感情が混じっていた。
まったく別の方向から石を投げられたような顔をしている。
皇帝の声から、探るような色が消えた。
アイクはその言葉を聞くと同時に、今度こそ大きなあくびが出た。緊張が解けたせいか、強烈な睡魔が襲ってくる。
「ああ、アイクにはもう遅い時間だな。呼び出してすまなかった。ゆっくり帰りなさい」
「はーーい。」
アイクは皇帝の膝から降りた。
なんて白々しいのだろう。
――アイクに専属護衛などいないことを知ってるくせに、何もつけないなど。
「おやすみなさいませ、おとうさま……あ、えっと帝国の象徴に……ありがとう存じます?」
「良い良い。ゆっくり覚えていけばいいのだ。おやすみ、アイク」
朗らかに皇帝は笑った。その笑顔の裏で、彼が急いで暦を確認する姿を想像し、アイクは内心で舌を出した。
※ ※ ※
様々な薬品が入り混じった変な匂い。
アイクはきゅっと顔を寄せた。
塔の中を見るとそこにはおよそ人が住んで居るとは到底思えなかった。
雑多な資料に実験器具。整頓されてるが整理はされてなさそうだ。
椅子すら近くになかった。アイクは唯一スペースの空いていた、硬い実験机の上に座らされた。
「……医務室に行かなくてもいいの?」
「馬鹿なことを言わないでくれ。あんな連中の処置は『治癒』とは呼ばない。ただ神に祈っているだけじゃないか」
リーンハルトは呆れたように鼻を鳴らすと、実験台から小瓶を手に取った。
「ちょうどこの間、浄化液を試作、治験したところなんだ。帝都大学の最新論文『細胞説』に基づいた配合でね。君の深い切り傷なら効果を発揮するのにちょうどいいんじゃないか?」
アイクも読んだことがある論文だった。革新的な考え方に心が躍ったのを覚えている。
(この人、ぼくを実験台にする気満々だ……)
リーンハルトは近くにあった布に液体を浸し、アイクの額に伸ばそうとする。
鼻を突く刺激臭。ーーあれだ。
「待って!」
アイクは反射的にその腕を掴んで止めた。
「暴れるな、少し染みるが膿むよりマシだ」
「やだ!それ臭い! すごく変な匂いがする!」
「消毒用のアルコールと薬草の匂いだ。我慢しろ」
リーンハルトは子供の戯言だと意に介さず、強引に布を近づける。
アイクは必死で首を捻って避けた。
(この匂い,去年鳥に使ったのと同じだ。あの時の鳥は……)
これを傷口に擦り込まれたら、激痛どころか組織が死滅して治りが遅くなる。最悪、痕が残る。
「それ!強いアルコールに『腐れ消し』の薬草を混ぜてるでしょう? 匂いでわかる。そんなの塗ったらぼくも死んじゃう!」
リーンハルトの手がぴたりと止まった。
「……確かに薬はそうだ。死ぬのは菌の間違いだろう?」
「ぼくの肌だよ! 去年同じ考えで怪我した鳥に使用したんだ。おそらくあなたと同じ成分の薬を作って。でも傷口が黒く腐って死んだ。」
「……僕の腕で試した時は、ちゃんと治ったし肌も荒れなかったが?」
興味深そうな光がリーンハルトの目に宿るがアイクはそれに気づかない。
「あなたのゴツい肌と、ぼくのやわらかい肌を一緒にしないでよ!」
呆れたように言い放ち、アイクは再び欠伸をした。
リーンハルトは小瓶と、アイクの白い額、そして自分の分厚い皮膚の手を見比べる。
「……治癒力を、殺す?」
ふと、リーンハルトがつぶやく。
リーンハルトは研究者だ。子供の戯言だと切り捨てようとした思考の裏で、既存の論理が高速で回転しているのが、その瞳の揺らぎでわかる。
だが、彼が導き出した結論は「否」だった。
「いや、あり得ない。高濃度のアルコールと防腐薬草による滅菌は、帝都大学の最新論文でも正当性が証明されている。細菌の繁殖を抑えることこそが治癒の絶対条件だ。君の言うことは、既存の魔導医学の基礎理論と根本から矛盾している」
専門家としての即時反射。自身の積み上げてきた研錠を否定された男の、鋭い拒絶。アイクは実験机の上で、静かに首を振った。
「矛盾しているのは理論ではなく、前提条件だよ。兄様。その論文の治験データは、おそらく成人したものか、あるいは耐性の強い成体のものでしょう?」
アイクの声は、アイク自身の意図を離れて冷たく響く。ただ淡々と、数式を解くように事実を羅列する。
だってあんなものかけられたくない。アイクは鳥と同じ末路を辿る可能性もあるのだ。
「未成熟な個体の細胞膜は、成人に比べて著しく薄く、脆弱だよ。細菌を焼き殺すほどの毒性は、柔らかな組織をも等しく破壊してしまうーー外敵を殺すために、城壁そのものを爆破してどうするの? 焼野原に、新しい家は建たないよ」
リーンハルトが、息を呑んだ。
沈黙が塔の中を支配する。男の瞳の奥で、膨大な既存研究と僕の提示した仮説が、猛烈な勢いで照合されていく。
幼児の皮膚の厚さ。浸透圧。細胞膜の透過性。
彼の頭脳は、アイクが投げた「変数の指摘」という一石によって、既存の医学体系を再構築し始めていた。
「……宿主への、負荷係数……」
ぽつりと、掠れた声が漏れる。それは納得ではない。自身の理論の盲点を見つけ出し、新たな解を導き出そうとする求道者の呻きだ。
「……成り立つ、可能性はある。いや、医学的にはむしろ、この視点こそが真実に近い。個体の成熟度に応じた濃度勾配の調整……なぜ今まで、誰もその変数に気づかなかったんだ」
リーンハルトの顔色が変わった。
彼はハッとしたように布を放り出し、手元の小瓶を凝視する。
「……表面の皮膚なら耐えられても、傷口の奥にある柔らかな組織は……」
「うん、だから綺麗な布をちょうだい」
アイクが言うと、リーンハルトは長い沈黙の後、深く息を吐き出して俯いた。
「……僕は君を治療するころか、取り返しのつかない傷を負わせるところだったと言うのか」
小さな呟き。
そこで、アイクは我に返った。血の気が引く。
ーーーーーぁ。
脳裏によぎる、乳母の引き攣った顔。
前世のせいで。
「……すごい」
しかし、聞こえてきたのは感嘆の声だった。
「すごい!確かにそうだ、理に適っている! 『毒をもって毒を制す』という概念に囚われ、宿主である肉体への負荷係数を見落としていた……! 仮説に検証、その思考プロセス!すごい!」
リーンハルトは歓喜に震える手でアイクの肩を掴んだ。
「アイク、という名前で合っているか? ああ、今日ほど神の存在を信じたことはない。君のような存在に出会わせてくれるなんて!」
ーーそっちで呼ぶんだ。
なぜ名前を知っているかなんて、どうでもよかった。黒髪ゆえのだろう。
「……怖くないの? それに、ぼく、黒髪だよ」
「不合理だな。君はそんな些細なことにとらわれるのか? 理の探求に比べれば、髪の色などどうでもいい。ああ、もっと君と語り合いたい!」
不合理。
その一言が、アイクの胸に深く突き刺さる。
異端として排除されるのではなく。非効率として棄却され理解。その冷徹な肯定が何よりも救いとなった。
「ああ、清潔な布だったな。ええと、この辺りに……。……ああ、暗いな」
リーンハルトが腰の杖を手に取り、不思議な所作を加える。
直後、ボォッ、と杖の先に火が灯った。彼はそれを蝋燭に移し、杖を振って火を消す。
「なに……それ?」
いや、わかる。知識としては知っていた。
だが、図書館にある魔術書はどれも「精霊の加護を受けよ」だの「魂を燃やせ」だの、感情論ばかりで反吐が出た。だからアイクは、魔術を空想の話だと結論づけ、視界から排除していたのだ。
だが、目の前の光景は違う。
リーンハルトが杖を振る直前、周囲の空気がわずかに歪み、風が起こった。そして何らかの不可視のエネルギー体が、一定の指向性を持って集束し、熱となった。
(……あるじゃないか。ちゃんと『理』が)
「魔術だ。アイク、見たことはなかったか?」
「これが、魔術……?」
アイクの頬が、かつてないほど紅潮する。歓喜に震える。眠気などとうに吹き飛んだ。
「どうやってるの!? その……見えない『力』の粒を、どうやって一点に固めたの?それとも、力の流れる向きを無理やり変えてるだけ!?」
「な、なんだって……? 粒? 向き?」
前のめりになりすぎて机から落ちそうになるアイクを、リーンハルトが驚いたように支える。
「一般的には想像力で魔素を動かすと言われている。だが、実際には何らかのプロセスを踏んでいるというのが最新の見解だ。それを解明しているのが、この僕、リーンハルトだ。」
リーンハルトは満足げに微笑んだ。
自分と同じ、あるいはそれ以上に「理」に対して飢えた瞳が、そこにあったから。
「ねえ、もっと教えて。」
アイクは手を伸ばした。




