28
アイクが手に持っていた魔導通信機がなった。
アイクはそれに飛びつくようにその通信をとる。
オアンネスからだった。
『……アイク。すまない。今取り込み中か?』
「気にしないで。どうしたの?何か問題でも?」
アイクがそう聞いた瞬間オアンネスが言い淀む。
『いや……一度戻って来れるか?』
「いいよ。今すぐ行く」
食い気味に放たれた声は、自分でも驚くほど悲鳴に似ていた。
理由などどうでもいい。オアンネスが差し出してくれた「呼び出し」という名の糸に、アイクはなりふり構わず飛びついた。自分を優しく観測する兄の瞳から、その温度から、一秒でも早く逃げ出したかった。
「……そういうわけだから。ちょっと、行ってくるね」
リーンハルトの顔を見ることさえできず、アイクは最短の演算でヴァルプトーアを構築する。背後で響いた「これが、ヴァルプトーア……」という、感嘆に震える兄の声さえも、今は肌を焼く不快な熱にしか感じられなかった。
だが。
転移の光が収束した先、アイクを待っていたのは、渇望した安寧ではなかった。
「……は?」
視界に飛び込んできたのは、オアンネスの隣に、石像のように深く跪く男の姿。
――ウーヴェ。
その姿を見た瞬間、アイクの脳内に鋭い警告音が鳴り響いた。
一ヶ月前、彼はアイクのその盤面から降りたはずだった。計算上、彼は二度とアイクの前に現れるべきではない「欠損データ」だったのだ。
「総帥。……申し訳ありませんでした。貴方を信じきれず、そのあなたの心を傷つけてしまった」
「……別に、傷ついてなんていない。やめてよ、気持ち悪い」
思考が、バラバラに剥離していく。
言葉だけが防衛本能のように唇を滑り落ちるが、胸の奥では得体の知れない動悸が暴れていた。
なぜ。どうして。
――計算が、合わない。
唯一の不可侵領域であったはずの自分の組織までもが、未知の変数によって浸食されていく。
「で、なんでここに? 僕はもう、君がどこかで野垂れ死んだと思っていたんだけど」
精一杯の棘を込めて、ウーヴェを突き放す。だが、ウーヴェはその毒を、まるで恵みの雨であるかのように全身で受け止め、懐から厚い紙の束を差し出した。
アイクの細い指先に触れるその紙束は、異様なほど熱を帯びていた。
「この一ヶ月、死を覚悟して『銀の歯車』へ潜入しておりました。これらは奴らの拠点の配置、構成員、そして次期計画……機密情報のすべてです」
渡された紙の束。そこに並ぶ正確な数字や記号は、間違いなくアイクが喉から手が出るほど求めていた「武器」だ。
だが、その紙束に付着した乾いた血の匂いと、ウーヴェが放つあまりに真っ直ぐな、そして重苦しい「献身」の熱が、アイクの正気を削り取る。
「……これしきの情報で、総帥への贖罪になるとは思っておりません。ですが……僕は、貴方に断罪されたかった。貴方の足元で、その命の使い道を決めていただきたかったのです」
跪いたまま、男は切実な光を宿した瞳でアイクを見上げる。
その瞳には、かつてアイクを射抜いた恐怖も、嫌悪も、警戒もない。
あるのは、アイクが最も恐れる「理解不能な、命懸けの肯定」だった。
(そんな目で見ないで……! 嘘だ、計算しろ、裏があるはずだ……!)
脳内の演算装置が、焦げ付くような音を立ててオーバーヒートを起こす。
絶望的な拒絶と共に、その瞳から夜の黒が急速に剥げ落ち、狂おしいほど鮮やかな「蒼」が、その奥で火花を散らす。
ウーヴェを切り捨て、冷徹な王として君臨するはずだった盤面が、ドロドロに溶けていく。
家族という名の「呪い」から逃げてきた先には、忠誠という名の「猛毒」が待っていた
逃げ場がない。
世界が、アイクを怪物の檻に閉じ込めておくことを、もう許してくれない。
どこへ行っても、誰と会っても、彼の理解を越えた雑音が、美しい数式を無残に汚していく。
「あ、……ああ、そう。……よくやった、ね。すごいじゃない、君にしては」
アイクは紙束を震える手で掴むと、それ以上ウーヴェの顔を見ることができず、よろよろと後ずさった。
心臓が肋骨を突き破らんばかりに脈打ち、肺が空気を拒絶する。
自分がどこに立っているのかさえ分からなくなり、アイクの唇からは、壊れた人形のような言葉が零れ落ちた。
「そういえば、……兄様に、呼ばれてたんだった。まだ、途中だった。忘れてた。行かなきゃ、戻らなきゃ……!」
「総帥? アイク、顔色が真っ白だ。落ち着ーー」
オアンネスの手が肩に触れようとする。その温もりさえもが、アイクには自分を焼き尽くす炎のように感じられた。
アイクは弾かれたようにそれを振り切り、再びヴァルプトーアを起動させた。
座標の演算さえ、震える指先ではままならない。
逃げ出すように空間の裂け目に消えるアイクの瞳には、かつての冷徹な支配者の面影は微塵もなかった。
そこにあったのは、得体の知れないなにかに追い詰められ、泣き叫ぶことさえ忘れた、幼い迷子の怯えだけだった。
皇宮の自室。
転移の光が収束するなり、アイクは床に手をつき、胃の腑をぶちまけるような勢いで荒い呼吸を繰り返した。手には、ウーヴェから手渡された血と忠誠の匂いがする紙束が、呪いのように握りしめられている。
「……おかしい。全部、なんでっ……」
全てアイクの盤上のはずだった。計算がこんなにも狂うなんて。
ノイズにまみれて霧散していく。安らぎを求めて逃げた組織で、アイクはより逃げ場のない「肯定」を突きつけられた。
ただ、自分の足元に命を投げ出す男の、あの純粋な、あまりに無垢な瞳。
(あそこも、もう僕の居場所じゃない。どこにも、逃げ場なんて――)
そう思い、顔を上げた瞬間。アイクの思考が凍り付いた。
誰もいないはずの自分の私室。そこには、三人の先客がいた。
「……お帰り。遅かったな」
ゆったりとソファに腰掛けていたのは、第二皇子リーンハルトだった。その隣には、彼に付き従うハンネスが影のように控え、ローザがただ所在なさげに立っている。
「なん……で、ここに……」
アイクは混乱し、後ずさる。だが、背後の扉が開く音がした。
振り返れば、そこには第一皇子アヴェラルトが立っていた。さらにその奥には、第三皇子クーリルトと、そして――絶対的な威厳を纏った父、皇帝までもが揃っていた。
「リーンハルトから聞いたぞ。何やら相談の最中だったらしいな」
リーンハルトが立ち上がり、アイクに歩み寄る。その歩みは、獲物を追い詰める捕食者のそれではなく、あまりに静かで、慈愛に満ちたものだった。
逃げようにも、四方を「家族」という名の壁に塞がれている。
「相談相手は、多い方がいいだろう? 一個人の偏見的な意見より多角的に物事を見れる」
リーンハルトの温かな手が、アイクの肩に落ちる。
その瞬間。
アイクの中で、何かが音を立てて決壊した。
ローザに触れられた時の微かな体温。サキが最期に残した祈りのような微笑。叔父が紡いだ「愛子」という異国の名の残酷な甘やかさ。そして今、掌にあるウーヴェの血塗られた献身。
今まで「雑音」として処理し、意識の端に切り捨ててきたはずのすべてが、制御不能な奔流となってアイクの精神を浸食していく。
「……っ……ぁ……」
視界が歪む。
初めて裏社会の闇に足を踏み入れ、血の海に立った時ですら、アイクはこれほど怯えなかった。あの時の恐怖は、死という「解」を導き出せる現象だったからだ。
だが今は、一秒先の結果すら予測できない。
形のない重みが、彼がこれまで命を懸けて構築してきた「理解されない怪物」という名の防壁を、塵一つ残さず粉砕していく。
「アイク。……何に困っているんだ?」
皇帝の、深く、慈愛を孕んだ問いかけ。
答えなんて、わかるはずがない。
世界を格子として解釈し、分子の振る舞いすら操ってきた自分の脳をどれほど高速回転させても、この胸の痛みに対する演算式が見当たらない。
自分が、自分ですら分からなくなる。
その未知という名の闇が、死よりも、絶望よりも怖かった。
「……ぁ……、…………」
頰を、熱い液体が伝った。
それがなにであるのかでさえ、彼は気づかない。
「アイク……? お前、泣いているのか?」
リーンハルトの狼狽した声が、鼓膜を震わせる。
指摘され、アイクは震える指先で自らの顔に触れた。指先に付着した、無色の雫。
数式でもなく、魔素の結晶でもない、ただの不合理な液漏れ。
「……なんで。なんで、止まらないんだ。……なんで」
自覚した瞬間、世界の解像度が急激に歪んだ。
喉の奥から引き攣れた嗚咽が漏れる。彼はその場に膝をつき、自らの体を壊さんばかりに抱きしめて丸まった。泣いている自分を、この醜悪なバグを拒絶するように、全身が激しく痙攣する。
見開かれたアイクの瞳は、もはや人のそれではない。深く、昏い、絶望の色をした澄んだ蒼。
「……ぁ……っひ………ああぁ」
視界を塞いでも、耳を塞いでも、彼らの放つ暖かな雑音が、防壁の隙間から容赦なくアイクを貫く。
分かっている。これは取引ではない。奪いに来たのでもない。
ただ一方的に与えられ、侵食されているのだ。彼には解析も、予測も、防御もできない、あまりに暴力的なまでの純粋な感情に。
(死ぬより、怖い。消されるより、恐ろしい……!)
心臓が肋骨を叩き割りそうなほど暴れ、脳が処理落ちを起こして白く染まっていく。
最強の怪物は消え、そこにはただ、あまりに鋭敏な知性を持ってしまったがゆえに、「無条件の肯定」という未知の劇物に打ちのめされた、小さな命があった。
アイクははくはくと口を動かす。音のない声が漏れる。
「……わか、ら……な、い……」
ようやく一文字ずつ、吐血するように絞り出す。
「わからない」
世界を定義し、支配してきた彼にとって、それは全存在の否定であり、根源的な恐怖の証明だった。
その時、視界が大きな影に覆われた。
「――もういい、アイク」
地響きのような低い声と共に、抗いようのない力がアイクを包み込んだ。
皇帝が、その巨大な腕で、震えるアイクを真正面から抱きしめたのだ。
「っ……、……ぁ……!」
拒絶しようと手が動くが、指先に力が届かない。
アイクの顔が皇帝の胸元に押し付けられる。
視界は暗転し、鼻腔を突いたのは――重厚で、どこか懐かしい、乾いた「葉巻の匂い」だった。
その匂いが、アイクの脳内の奥底、厳重に封印していた幼少期の記憶の扉を無理やり抉じ開ける。
計算式も、魔術の理論も、裏社会の冷徹なルールも、その匂いの前ではすべてが無力だった。
逃げ場は、もうどこにもなかった。
「……ぁ、……あああああ……ッ!!」
アイクは皇帝の衣を掴み、狂ったように顔を埋めた。
理性が完全に剥がれ落ち、震える喉から漏れるのは、もはや言葉ですらない。
かつて捨て去ったはずの、幼子の、剥き出しの慟哭だった。
――どれほどの時間が過ぎたか。
泣き腫らし、感情のすべてを吸い出されたアイクは、兄弟たちに囲まれ、呆然と窓の外を眺めていた。室内には、嵐の後のような、しかし逃れようのない温かい静寂が満ちている。いまだに雫が落ちてくる。ぐずぐずと鼻を鳴らしながら、皇帝の膝に座っていた。アイクの手は皇帝の服を掴んでいる。
その時、懐の魔導通信機が、震えるように明滅した。
おそるおそる通信を開くと、そこには聞き慣れた、しかしどこか怯えるようなウーヴェの声があった。
『……あの、総帥。……申し訳ありません、このような時に。ですが、一つだけ確認させてください。……僕は、まだ総帥にお仕えしていて、いいのですよね……?』
アイクは、赤く腫らした目で通信機を見つめた。蒼い熱の引いたその瞳は、今はただ、ひどく疲れ果てた10歳の子供の灰青色だった
数分前までの自分なら、冷酷に「好きにしろ」と切り捨てただろう。
だが、今のアイクの胸には、煙草の匂いと共に刻まれた、整理できない熱がまだ燻っていた。
「……うーゔぇの、ばか」
アイクの口から漏れたのは、最大限の甘えを孕んだ、掠れた声。
「……そんなところで、土下座なんてしてないで……。早く帰ってきてよ。…………隣に、いてよ」
通信の向こうで、物理的な衝撃が走ったかのような沈黙が訪れた。
『…………え。………………ええええええええええええッ!?!? そ、総帥!? !? 今、なんて……!? え、ええ!? 本当に総帥ですか!? え!?!?』
パニックに陥るウーヴェの叫び声を、アイクは力なく、しかしどこか晴れやかな、あるいは諦めたような気持ちで聞いていた。
傍らにいた兄弟たちの、温かすぎる視線に晒されながら。
アイクにとっての世界は、もう、冷たい数式だけの場所ではなかった。
美しく、残酷で、そして何よりも「ままならない」色彩に満ちたものだった。
読了された方へ
この重い物語の第一部を最後までお読みいただき、心から感謝します。
もし物語が心に残ったなら、評価いただけると励みになります。
第一部を一気に投稿してストックがなくなってしまったので第二部は少しずつ投稿していきます。




