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「アイク様……。あの………」


自室で影から声をかけてきたローザの瞳には、湿った同情と、隠しきれない怯えが混濁していた。

アイクはその視線を、吐き気を催すほどに嫌悪した。


(……中途半端)


蔑むなら、怪物として指を指せばいい。憐れむなら、すべてを捨てて地獄まで付き合う覚悟を見せればいい。そのどちらも選ばず、宙ぶらりんな場所で「可愛い人形(アイク)」の残影に縋り付くその姿は、不正確で不快なバグでしかない。


「ローザ。……僕を試しているの?」


アイクの声が、氷点下まで凍りつく。

ただ一歩、その身を預けるようにローザとの距離を詰めた。逃げ場を奪い、彼女の瞳の奥を、標本を観察するように見据える。


「君は、僕の中に何を見ているの? メイドとしての憐憫? 母親代わりとしての義務感?……君のその『優しさ』は、僕にとってはただの雑音だ」


アイクがローザを見上げた。そうして場違いなまでに笑顔だけを無邪気にさせる。


「脈拍が上がっているね。瞳孔は散大し、指先は微かに震えている。……ローザ、君は今、僕を見て『怖い』と思っている。それが生物としての正しい反応だ」


その瞬間スンっと無表情になって冷たく言い放った。



「でも、君はそんな自分の本能を、必死に『昔のアイク様』という幻想で塗り潰そうとしている。……なんて滑稽」

「……っ、そんな、違います、私は……っ!」

「何が違うんだ? 僕はね、この五年、何人もの命の火を消してきた。……交渉、暗殺、拷問。人を効率的に壊すための急所は、すべてこの手が覚えている。……今、僕がここを少し強く押すだけで、君のその慈愛に満ちた思考は永遠に止まるんだ。……そんな僕のどこに、君が期待する『温もり』があるっていうんだ?」


アイクはただ光のない瞳でローザを見つめる。ローザの体がだんだんと震えていくのを観測した。


「君が見ているのは、五年前の死体だよ。死体に縋ってもなんの意味もないってことにいい加減気づきなよ」


ローザの瞳に恐怖が宿り、あまりの嫌悪と、そして何よりアイクの言葉が持つ

「冷徹な真実味」に、彼女はその場に崩れ落ちた。

ガタガタと歯の根が合わないほど震え、彼女はアイクの服の裾を、けがれ物を避けるようにして振り払う。


「……ば……け…も………」


その言葉。芯まで凍りついた拒絶。

アイクの胸の奥で、カチリと何かが噛み合う音がした。


(――そうだよ。それでいい。ようやく正解に辿り端り着いたね)


アイクは勝ち誇ったような、歪な笑みを浮かべた。

彼女を真の絶望へ叩き落とした。自分を怪物として定義してくれる他者がいて、初めてアイクは「計算可能な自分」でいられるのだ。


「殿下。趣味が悪いですね。そこまでして嫌われたいのですか?」


背後から、重く、錆びついた声がした。ハンネスがいつの間にか、闇の中に立っていた。


「……ハンネス。消えてよ。君には別の用事があったはずだ」

「ああ、それはもう片付けました。殿下。あなたがそうやって自分を怪物に仕立て上げて檻をつくるのは見ていてあまりにも痛々しい。」


ハンネスはアイクの腕を掴むと、無理やりローザから引き剥がした。その瞳は、アイクが今しがた見せた「怪物」など、初めから存在しないかのように通り抜けてくる。


「ローザ、あなたも。殿下を人間扱いしたいなら、殿下が吐く毒くらい飲み干す覚悟を決めたほうがいい。中途半端な同情は、殿下を一番傷つける」

「傷つく……? 僕が? あはっ、笑わせないでよ。」


アイクは震える拳を握り締め、彼らを置き去りにして自分の部屋を出る。

心臓がうるさい。呼吸が熱い。

ローザを絶望の淵に突き落としたはずなのに、ハンネスの「痛々しい」という言葉が、呪いのように胸に刺さって抜けない。


(僕を、僕の定義の中に閉じ込めさせてくれ……! 誰一人、中に入ってくるな……!!)






図書館へ本を借りに行こうと廊下を歩いている時だった。

正面から、静かな足取りでやってくる人影があった。

第三皇子、クーリルト。

兄弟の中でも一際口数が少なく、常に何かに思索を巡らせているような、底の知れない男。

アイクは歩みを止めることなく、完璧に調整された「他人」としての笑みを浮かべ、優雅に一礼した。


「第三皇子殿下。ご機嫌麗しゅう。……ご挨拶申し上げます」


声のトーン、頭を下げる角度、視線の逸らし方。そのすべてが、親愛など微塵も含まない、徹底して無機質な儀礼。そのまま風のように通り過ぎようとした、その時。


「――いつまで、そうやって自分を殺し続けるつもりだ」


低く、しかし驚くほど透き通った声が、アイクの鼓膜を叩いた。

アイクの足が、まるで見えない杭で打ち付けられたかのように、ピタリと止まる。


「……なんのことかな。僕はいつだって、僕としてここにいるよ。第三皇子殿下」


振り返らず、声だけで応じる。だが、背後に立つクーリルトの視線が、物理的な圧力を持ってアイクの背中に突き刺さるのを感じた。


「お前の目は、すべてを見透かしているようでいて、自分自身の輪郭だけを頑なに拒絶している。……鏡に映る自分を、一度でも『人間』として認識したことがあるのか?」


アイクの指先が、ぴくりと痙攣した。


(……嫌だ。この男は、これだから)


論理的な反論など意味をなさない。クーリルトの言葉は、アイクが必死に構築している「怪物という名の要塞」を、最短距離で、しかも最も脆い基礎の部分から撃ち抜いてくる。


「お前が俺たちをどう定義しようが、お前自身が自分をどう蔑もうが、勝手にすればいい。だが――」


クーリルトが一歩、歩み寄る。その気配に、アイクは思わず肩を強張らせた。


「俺は、お前を俺の弟として見ている。それだけは、お前のどんな精密な演算でも変えられない事実だ」

「……っ」


アイクはそれ以上、一言も返さなかった。

返せなかったのだ。

これ以上この場に留まれば、自分の内側にある「空虚」が、彼の手によって白日の下に晒されてしまう。そんな本能的な恐怖が、アイクの背中を押し出す。

足早に廊下を去りながら、アイクは内心で、吐き捨てるように毒突いた。


(……大嫌いだ。本質を突いてくる奴なんて、この世から消えてしまえばいい)


冷徹な観測者として、彼は必死に己の均衡を保とうとする。

だが、アベラルトの誠実な謝罪、そしてクーリルトの鋭い洞察。家族たちが投げかけるこれらの言葉が、アイクの強固な「孤独」を、少しずつ、しかし確実に削り取っていた。

自覚なきままに、崩壊のカウントダウンはもう始まっていた。





あと1週間で1ヶ月が終わろうとしている日のことだった。

いつものように退屈な日々を読書に費やしていたアイクに告げられた言葉。


「殿下。第二皇子殿下が、魔導塔でお会いしたいとのことです」


伝えるのは、ローザではなくハンネスだ。


(ああ、家族ごっこの強要かな)


アイクは本を閉じ、返事もせずに立ち上がった。


魔導塔へ向かう最中のことだった。曲がり角の先から、見慣れぬ意匠の服を纏った男が現れた。

長くしなやかな体躯、そして、どこか自分と、あるいは記憶の中のあの人と重なる面影。


アイクが足を止めた瞬間、男の視線がアイクを射抜いた。


「――玲凛……?」


男の口から、掠れた声が漏れる。それは帝国の公用語ではない、アイクの脳の片隅に「呪い」として封印されていた、母の故国の言葉だった。

男は驚愕に目を見開き、幽霊でも見るかのようにアイクを凝視する。だが、すぐに悲しげな自嘲を浮かべ、首を振った。


「啊,失礼了。这种事不应该发生的。」


男は一礼し、そのまま通り過ぎようとした。

アイクの指先が、ぴくりと跳ねる。

無視すればいい。そのまま不合理な空間から離脱すればいい。


なのに、アイクの口は、意志を裏切ってその「禁忌の音」を紡いだ。


「――你认识我母亲吗?」


完璧な発音、流暢な故国の言葉。

男が、弾かれたように振り返った。その瞳に、驚きと激しい熱が宿る。


「能说话吗?你那个……」


男はアイクに歩み寄り、その肩を掴もうとして、躊躇うように手を止めた。


「我是李玄。玲凛的弟弟。你就是玲凛时刻挂在嘴边、那爱子吗?明明说过她已经不在了啊。」


(――李玄(リーシェン)。お母様の弟。そして、死んだと聞かされていた……僕。……愛子)


愛子アイジュ」。

その響きが、アイクの脳内で爆鳴を上げた。

「アイザーク」という帝国の名の裏に、母がずっと呼び続けていた、もう一つの名。


その意味を、アイクは知っている。


――愛、される、子。


(違う。嘘だ。ありえない)


その瞬間、アイクの脳内で、バラバラだったパズルのピースが恐ろしい速度で組み合わさろうとした。


母が自分を抱きしめて泣いていた理由。自分と母を切り裂いていた「誰か」の意図。


「母亲把我……?」


真実の出口まで、あと一歩。

だが、今のアイクに、それをこじ開ける勇気はなかった。

今、この場で信じたくもない計算結果が出てしまったら。

五年間の憎しみが、返り血で汚れたこの両手が、サキを救えなかった自分の無能さが、すべて無意味なゴミになってしまう。


「っ、……やめて……!」

「怎么了?脸色不好。」


思考を強制終了させる。脳内の演算を物理的に破壊するかのように、無理やり計算を振り切った。


「……関係ない。全部、雑音だ」


男に一礼してアイクはそのまま振り払うように去った。


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