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ーー帰ってきてしまった。


アイクは、肺の奥に溜まった、五年分の闇が凝縮したような淀んだ空気を吐き出すように、憂鬱なため息をついた。

この空気は、裏路地の腐臭とも、オークション会場の奢った香水とも違う。整えられ、消毒され、感情という雑菌を一切許さない、完璧なまでの「無」の匂いだった。


視界に映る石造りの廊下、等間隔に並ぶ燭台、そして、自分から目を背けて歩く案内人の背中。


(ああ、全部記憶通りだ。いや、少しも変わっていない。変わったのは、僕だけだ)


懐かしさが湧き上がる前に、その整いすぎた静寂が、耳の奥でじりじりと侵食する。裏世界の喧噪ですら、この「完璧な空虚」よりはましだった。あちらには、少なくとも「生」の気配が、たとえそれが泥臭くとも、あったから。


どうせ一ヶ月後には、また「夜天の檻」で書類の山を捌いているはずだ。これはただの、刑務所でさえも及ばない、極めて質の悪い休息に過ぎない。刑務所には看守がいる。敵意がある。だがここには、「過去」という名の、形のない檻しかない。アイクは自分にそう言い聞かせ、感情を、期待を、かつてここで死にかけた「希望」という脆いものすべてを、氷の棺の中に封印した。


向かっているのは、かつての自分の宮。忘れ去られたはずの、孤独な箱庭。

――そう、箱庭。 外からは美しく見え、中に閉じ込められた者だけが知る、息の詰まる小さな世界。

開けられた扉の先に立っていたのは、見覚えのある二人――メイドのローザと、騎士のハンネスだった。


「殿下……っ!」


悲鳴に近い声を上げて駆け寄ってきたのは、ローザだった。彼女はアイクの細い体を、壊れ物を扱うような、「可愛い人形(アイク)」を扱うときの手つきで抱きしめる。

アイクは一瞬、思考を停止させた。数多の命を奪い、返り血で魂まで汚し抜いたこの手で、彼女の背中の布地を掴んでいる。その矛盾が、脳を焼き、吐き気さえ催させた。


だが、彼女の瞳に宿る、濁りのない「憐憫」を見た瞬間、アイクの心は急速に、絶対零度へと近づく冷たさで凍りついた。


(……ああ。やっぱり。ここには、何もない)


「ねぇ。……お父様から、何も聞いてないの?」


低く、感情という振動を一切含まない、純粋な情報としての問い。ローザはその響きにさえ、アイクが受けたであろう「苦難」を読み取ったらしく、いっそ嘆かわしげに答えた。

彼女の「優しさ」は、真実を知らないことによってのみ成立している、脆いガラス細工だった。


「聞いておりますわ。攫われたと聞いたあの日から、わたくしは片時も殿下を忘れはしませんでした。もう、生きてはお会いできないかと……」


泣き崩れた彼女が、アイクの冷えた指先を、すがるように両手で包み込む。その体温は、先日失ったサキのそれに、残酷なほどよく似ていた。

──違う。

サキの温もりは、無知からではなかった。彼女は全てを知った上で、それでも「ミミちゃん」と呼び、抱きしめようとした。 それこそが、アイクを混乱させ、そして認めたくはないが、一瞬だけ「温かい」と思わせたものだ。


ローザの温もりは、偽りの物語に支えられた、空虚な代用品に過ぎない。

その瞬間、アイクの腹の底で、自分自身に対する強烈な嫌悪と、この全てを偽りで塗り固める世界への、どす黒い不快感が鎌首をもたげた。


皇帝は、事実を「誘拐」という名のデコレーションで塗り潰し、己の体裁を守るための美談を構築した。そして目の前の二人は、その「優しい嘘」という名の毒入りの飴を、一滴残さず、感謝しながら飲み干している。


アイクはローザの手から、ゆっくりと、だが引き抜くような明確な拒絶を込めて指を引き抜いた。


「攫われたんじゃない。僕が、自分の意思でこの箱庭を捨てたんだ。……家出したんだよ」

「え……?」


ハンネスの肩が、微かに強張った。彼は知っている。

アイクは無表情のまま、ローザの瞳を覗き込む。目隠しのないその双眸は、光を一切反射しない深淵のように濁り、ただ静かに彼女の「無知」と、その無知が生み出す「偽りの慈愛」を、標本を観察するように記録している。


「この五年間で、たっくさんの人を殺してきた。……数え切れないくらいにね。僕の命令一つで、街が一つ消えたこともある。ねぇ、その手、汚れちゃうよ。だって僕の手は、もう血の匂いしかしないんだから」


アイクの唇が、歪な三日月を描いた。

その「殺気」は、言葉ではなく、彼の存在そのものが発する、圧倒的な気配として部屋を満たした。窓の外の小鳥のさえずりが、ぴたりと止んだような気がした。かつて世話を焼いてくれたメイドを慈しむ心など、今のアイクには灰さえも残っていない。あるのは、この偽りの温もりを、その根源から断ち切らねばならないという、冷徹な義務感だけだ。


「でん、か……」


ローザの口から、声帯が恐怖で痙攣したような掠れた悲鳴が漏れる。彼女の瞳が、目の前の少年を「愛しい主人」ではなく「バケモノ」として認識し始めた。


そして、アイクの仄暗い瞳が彼女を射抜こうとした、その刹那。

ハンネスが動いた。本能的な恐怖に突き動かされた彼は、顔を歪めながらローザの腰を抱き寄せ、火薬の爆発のように後方へ飛び退いた。

アイクの指先が届かない距離まで。あるいは、怪物の牙を逃れるための、生物としての、最も正直な選択。


「……ふはっ」


アイクの口から、砂埃が舞う廃墟のような乾いた笑いが漏れた。

獲物の反応を確かめ終えた観測者のような、何も生み出さない、空虚な満足感。


(正解。これが、僕と世界の、唯一正しい距離だ)


やっぱりね(シクトプラエディクシ)。……それが正解だよ、ハンネス」


守られるべき「弱き第四皇子」ではなく、排除すべき「危険な怪物」――その正体を、彼らの生存本能が、アイクの言葉より雄弁に肯定してしまった。

先ほどまでの、涙に霞んだ感動的な再会劇は、たった一瞬の「真実の曝露」によって、無惨に引き裂かれた。


ハンネスはもう5年も前にアイクの異質さを身をもって知っていた。

そして今、この宮にいた者たちもまた、アイザークという名の、救いようのない「絶望」を、骨の髄まで刻み込まれることになったのだ。


救われるはずなど、最初からない。

ここは、ただの墓場の延長でしかないのだから。





あれから数日。

ローザは以前のように、アイクを人間として繋ぎ止めようとするのをやめた。彼女はただ、感情の消えた機械のようにメイドとしての職務を全うしている。それが彼女なりの、怪物に対する護身術なのだろう。


アイクは、退屈だった。

図書室で借りてきた本に視線を落としていると、まるでローザを絶望させる前の日常が戻ってきたかのような錯覚に陥る。


――背後で自分を射抜く、ハンネスの視線さえなければ。

彼は五年前にアイクの本質に触れたからか、その瞳には明確な警戒と不信が宿っている。アイクはそれが、羽虫の羽音のように煩わしくてたまらなかった。

ただただ、一日が惰性のために消費される。


(……探し物、ね)


オアンネスが言った言葉を反芻するが、こんな箱庭に本当に自分の求めるものがあるのか、疑問は深まるばかりだった。


借りてきた魔導書をめくっていたアイクは、ふと、ローザが運んできた紅茶の匂いを嗅いで手を止めた。一一香りが違う。

かって、ウーヴェが、アイクが好むと正確に計算した温度と茶葉の量で淹れてくれた、あの完璧な紅茶とは。...あの駒は、もうここにはいない。アイクは意識的に思考を切り、無味乾燥な現在の湯気の向こうに視線を戻した。









書斎の椅子に深く腰掛け、魔導書の記述を脳内で演算していたアイクは、ノックの音と共に現れた人物を認めると、眉一つ動かさずに視線を戻した。


「……何の用、皇太子殿下」

「アイク。少し、話をいいか」


入ってきたアヴェラルトは、かつてアイクを罵倒した時のような威圧感を、不思議なほど消していた。彼はアイクの正面に立ち、その無機質な瞳を真っ向から見据えた。


「先日のことだ。……あんな場で、お前を『ドブネズミの王』や『家畜』と呼び、貶めるような真似をして、すまなかった」


あまりに真っ直ぐな謝罪。

だが、アイクの心に波紋は起きない。彼はページを捲る指を止めず、淡々と、事務的な声を出す。


「謝る必要なんてないよ。僕が裏社会の組織を統べているのは事実だし、帝国の平穏を乱すドブネズミの長だというのも、陛下たちの視点から見れば正解だ。……事実を口にして、何を悔いる必要があるの?」

「事実か否か、という話をしたいのではない」


アヴェラルトの声が、低く、重みを増した。


「私は、あの日お前を傷つけるために、あの言葉を選んだ。兄として、対等な一人の男としてではなく、ただ己の優越を示すために、お前の尊厳を汚そうとした。……その浅ましさを、私は悔いているのだ」


アイクは魔導書を閉じ、ゆっくりと顔を上げた。


(……変わったな)


アイクの脳内にある五年前の「アヴェラルト」というデータが、急速に書き換えられていく。

かつての彼は、もっと直情的で、プライドを振り回すだけの「中途半端な第一皇子」だった。だが、今の男の瞳に宿っているのは、己の非を認め、泥を被る覚悟を決めた「王」の風格だ。


だが、アイクはその変化さえも、ただの「観測対象の更新」として処理する。


「ふうん。……でも、無意味だよ」


アイクは冷えた笑みを、薄く唇に浮かべた。


「皇太子殿下が何を悔いようが、僕の心には一ミリも響かない。傷ついた覚えもないし、期待もしていない。殿下が『殿下らしく』振る舞おうとするのは自由だけど、僕をその内省の材料に使わないでくれるかな。……時間の無駄だ」


突き放すような、無慈悲な言葉。

アヴェラルトはわずかに表情を歪めたが、目を逸らさなかった。


「……そうか。だが、私は諦めないぞ、アイク」

「勝手にすればいい。扉は閉めていってよ、皇太子殿下」


アイクは再び本に視線を落とし、彼が退出する音をただの振動データとして聞き流した。

この時のアイクにとって、アヴェラルトの誠実さは、解く必要のない低俗な数式に過ぎなかった。

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