intermission
intermission-幕間
アイクが窓枠から夜の闇へ身を投げ、転移の光の中に消えた数分後。
皇帝の執務室の扉を叩いたのは、愛する息子ではなく、先ほどまで「捕虜」として幽閉されていたはずの男、オアンネスだった。
「――失礼する。帝国の皇帝陛下」
皇帝は、入ってきた男を一目見て、隠しきれない失望を露わにした。
「……なんだ、そなたか。アイクではないのか」
露骨にがっかりしたその声に、オアンネスはそりゃ悪かったなと毒づきつつも、悠然とソファに腰を下ろした。
「期待外れですみませんね。総帥の命で、急ぎ参った次第です。着替える暇もなかったので、返り血が落ちていなくて失礼」
さっきまで捕虜として扱われていた男が、今は血の匂いを漂わせ、不敵な笑みを浮かべて脚を組んでいる。その変貌ぶりに、同席していた皇子たちはわずかに気圧された。皇帝は、アイクが先ほど見せた鮮やかな転移術を思い出し、ふっと口角を上げる。
「そなたも、アイクのおかげで帰ろうと思えばいつでも帰れる手段を持っているのだろう。……ならば、無駄な駆け引きはやめだ。腹を割って話そうじゃないか」
オアンネスは困惑したが、おくびにも出さない。
(買い被りすぎだ。あんなデタラメな芸当ができるのは、世界でアイクただ一人だぞ)
「さあ、どうでしょうね?」
その不敵な態度が皇帝に「やはり手出しは無用か」と確信させる。
皇帝は、深く椅子に背を預けると、交渉の決定打となる真実を口にした。
「あの子を……我が帝国の『第四皇子アイザーク』を、一ヶ月だけ、皇宮に留め置きたい。それが望みだ」
(皇子……だと?)
脳裏をよぎる、アイクの姿。
常識外れな知識。平民の暮らしを知らぬ世間知らずな言動。そして時折見せる、人を跪かせるような天性の覇気。
「そこそこのお坊ちゃん」だとは踏んでいた。だが、まさかこの帝国の、最も高貴な血筋だったとは。
(……合点がいった。あの子のあの、「世界などどうとでもなる」という傲慢さは、生まれついてのものだったか)
驚きは腹の底に沈め、オアンネスはポーカーフェイスを貫いた。さも「当然知っていましたが?」という顔で、静かに頷く。
「……驚かないのだな。流石はアイクの右腕だ」
「驚いて見せた方がよろしいですか? あの方の気品は、最初から隠しきれるものではありませんでしたから。……一応、そこそこいいところの坊ちゃんだとは知って、いえ、思っていましたよ」
オアンネスは平静を装い、本題を切り出した。
「総帥を一ヶ月、皇宮に預ける。……良いでしょう。ただし、我々『夜天の檻』にも相応のメリットをいただきたい。総帥の不在というリスクを埋めるための代価です」
オアンネスが提示した条件は、冷徹なものだった。
「第一に、対立組織『銀の歯車』の公的な排除、および情報提供。奴らの拠点の位置と、背後にいる貴族のリストをすべて渡していただく。第二に、今後、特定領域における我々の活動への一切の不干渉……不可侵の締結です」
「……ドブネズミにしては、随分と高く売るものだ」
「命を預けている相手ですので。……そして、これが最も重要だ。一ヶ月後、アイクが自らの意思で戻ることを、帝国側は一切妨害しないと誓約していただきたい。あの子が傷ついて戻ってくるようなことがあれば、次は交渉ではなく戦争になると思っていただきたい」
オアンネスは、アイクが喜びそうな条件を並べ立てた。
帝国が裏で把握している『銀の歯車』の情報及び排除。彼らを庇護する貴族のリスト。そして、今後の「夜天の檻」の活動の黙認ーーつまり帝国の唯一の裏窓口になるということだ。
皇帝は少しの間、煙草を燻らせた後、不敵に笑った。
「交渉成立だ。……だが、最後の誓約は不要だな。アイクが自分の足でどこへ行こうと、私はそれを止めはしない」
皇帝が浮かべたのは、不敵な、そして絶対的な「王」と「父」が混ざり合った笑みだった。
「ただ、彼が『帰りたくない』と思わせるのが、我々家族の仕事だと思っている。……あの子が欲しているのは、数式や魔導具ではなく、もっと血の通った、不条理な『温度』のはずだ」
オアンネスはその言葉に含まれた、圧倒的な執着に背筋が寒くなるのを覚えた。
(……あの子は、計算で勝てる相手には無敵だ。だが、こういう『泥臭い愛』という変数には、一番弱い)
「……そうですか。では、吉報をお待ちを」
オアンネスは優雅に一礼し、踵を返した。
もちろん、転移術など使えない。彼は堂々と、正面玄関から、皇宮の衛兵たちが凝視する中、悠然と歩いて帰ったのだった。




