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鈴を転がすような、透き通った軽やかな声。かつて宮廷の片隅で、誰に望まれることもなく咲いていた可憐な花を思わせる、汚れなき無邪気な笑み。

そのすべてが、五年前と何一つ変わっていない。


だからこそ、この場にいる全員が、背筋を氷の刃で撫でられたような異質さに総毛立った。

目の前にいる少年の外殻は、紛れもなく自分たちが知る「アイザーク」だ。しかし、その内側は――色彩も、温度も、倫理さえも消失した、真っ暗な空洞アビスだった。


「だから言ったのに。殿下はかつての姿ではもはやありませんよ、って」


呆れたようにアイクは吐息をついた。その仕草一つとっても、洗練された貴族の優雅さと、裏世界の王の不遜さが混じり合い、見る者の平衡感覚を狂わせる。


彼はふらりと歩を進めると、月光が差し込む窓枠に、行儀悪くその縁に腰をかけた。背後に広がるのは、星すら飲み込む死の深淵。


「……なぜ、裏社会などに身を置いているのだ。アイザーク」


一番初めに我に返った第三皇子クーリルトが、絞り出すような声で問うた。軍人として数多の修羅場を潜り抜けてきた彼でさえ、弟の瞳に宿る冷酷で、無慈悲な光に喉が焼けるような圧迫感を覚えていた。


「んー? なんとなくかな?」


アイクは小首をかしげて見せる。今もなお「非力で守られるべき子供」の皮を被り続ける弟に対し、クーリルトは奥歯を噛み締め、吐き捨てるように重ねた。


「……それで納得できると思うか。」


鋭い視線がアイクを射抜く。この第三皇子特有の、本質を抉り出そうとする野生の勘。


「クーリルト兄様。愚問ですね? ……そうだね、わかりやすく言うなら」


「兄様」という懐かしい響き。あえて言葉を切って焦らすその沈黙の間、部屋にはアイクが弄ぶ魔導通信機の微かな駆動音だけが響いた。


「たとえば。この部屋から出るための手段は、二つ」


その言葉に誘われるように、皇族たちは反射的に、重武装の衛兵が立つ堅牢な扉を見つめた。秩序と、法律と、血統が保証する唯一の出口。


「ふふっ。ドアだけじゃないよ。……あっちからも」


アイクは、自分が腰掛けている窓を開けて、外を細い指で差し示した。そこには、光を拒絶するような真夜中の虚無が口を開けている。


「兄様たちがね、正しくドアから出るように。僕は、なんとなーーく窓から出た。……ただ、それだけのことだよ」


秩序を捨て、墜ちることを選んだ。

その平然とした態度は、誇り高い皇族たちの神経を逆撫でする。第一皇子は、弟が口にする「窓」という言葉の裏にある、数多の血と裏切りを想像し、激しい眩暈に襲われていた。


「……何人、手をかけた」


皇帝の、地の底を這うような重苦しい問いが響いた。帝国の絶対守護者として、目の前の息子が積み上げた「業」の深さを、せめて数字で測ろうとするかのように。


「えーー? 覚えてるわけないでしょ。たっくさんだよ。たっくさん」


アイクは無邪気に両手を広げてみせた。その姿は、かつての愛おしさを保ったまま、決定的に、修復不可能なほどに狂っていた。彼にとって、奪った命は「定数」ですらない。ただの消費された「変数」に過ぎないのだ。


「あぁ。もう、こんなに夜が更けちゃったね」


アイクは窓の縁に、不安定な足取りで立ち上がった。風にたなびき黒いコートがどこか儚さを醸し出す。


「じゃあ、僕は帰るね」

「待て! そこは四階だぞ! アイク!!」


そのまま背後へ倒れ込もうとするアイクに、クーリルトが悲鳴のような怒号を上げ、咄嗟に手を伸ばした。その手はあと数センチで弟の細い手首に届くはずだった。

その瞬間。


アイクは一瞬だけ、本当に一瞬だけ――。

かつての、あの日。家族に愛されることを夢見ていた「アイザーク」のような、寂しげで、慈しむような細い目を向けた。


「……本当に、心配性だなぁ。兄様は」


その呟きを最後に、アイクは後ろ向きに、夜の深淵へと身を投げた。


「アイクッッ!!」


クーリルトたちの絶叫が、ヴェネルッツ邸の壁に反響する。

クーリルトが窓枠を掴み、身を乗り出した。

その視線の先で、アイクの体は重力に従い、夜風に衣類をはためかせながら、猛烈な速度で地面へと吸い込まれていく。


墜ちていく。


かつて彼らが守らなかった、小さな背中が。

自分たちが目を逸らし続けてきた、漆黒の絶望そのものが。


地面に激突するまで、あと数メートル。


衝撃を覚悟し、第一皇子は思わず目を逸らし、皇帝は息を止めた。

だが――。


激突の直前、漆黒の石床に、アイクの瞳と同じ「氷の青」をした幾何学的な紋様が、爆発するように閃光を放った。

空中でアイクの体がその光に触れた瞬間、重力という理が書き換えられる。


アイクの体は、衝突の衝撃を一切生じさせることなく、水面に沈む石のように、音もなくその光の裂け目へと沈んでいった。

刹那。光は霧散し、後に残されたのは、不気味なほどに静かな夜の庭園だけだった。


そこには血の一滴も、衣類の切れ端すら落ちていない。

ただ、四階の窓辺には、冷たい夜風が吹き込み、カーテンが幽霊の腕のように虚しく揺れている。


「……消えた?」


第一皇子が呆然と呟く。

彼らが必死に伸ばした手は、結局、空気を掴んだだけだった。







転移の衝撃が、神経を逆なでする不快な耳鳴りとなってアイクを襲った。

視界が白く焼け、次に焦点を結んだのは、冷徹な秩序に支配された執務室の光景だった。先ほどまで感じていた、古巣の邸宅が放つ「家族」という名の泥濘ぬかるみのような空気はもうない。


そこには、一足先に帰還したオアンネスが、影のように静かに立っていた。


「オアン。」


アイクは一言だけ、掠れた声で呟いた。

喉の奥が焼けるように熱い。無理やり気力を絞り出し、家族の前で「怪物」を演じきった反動が、今さら重い鉛となって全身を支配し始めていた。


「すまなかった。俺の失態だ。……いかなる処分も甘んじて受けよう」


膝をつこうとするオアンネスを、アイクは視線だけで制した。


「……お前は僕の貴重な戦力だ。盤面から欠けてもらっては困る。だから助けただけ。恩は、働きで返しなよ」


その冷たい突き放しこそが、アイクにとっての「親愛」の裏返しであることを、オアンネスだけは正しく読み取っていた。彼はわずかに口角を上げると、アイクへと歩み寄る。その足音さえも、今のアイクには耐え難いほどの振動として脳を揺らした。


「俺の情でアイクの盤面をかき乱してしまった。……アイク。君も、もう一人に――『彼女』にかき乱されたんだろう?」

「……遺体は?」


質問には答えず、質問で返した。サキの名を口にすることさえ、今は自分の核が崩壊するトリガーになりかねない。アイクの指先が、目に見えないほど微かに震えている。


「安置所に置いてある」

「そう。………たぶん明日には、夢から覚めるみたいに消えているだろうけど。気にしないで」

「了解した」


アイクは目蓋の裏に、かつてサキが差し出した安っぽい飴玉の残像を浮かべた。


その時、アイクの懐にある魔道通信機が、無慈悲な震動を上げた。ーー皇族からだ。

アイクはそれを一瞥し、酷く顔を引き攣らせた。


「はぁ? もう? ……信じられない。なんてせっかちなの。……もう、行きたくなぁーーーい。疲れたーーー!!」


アイクは子供のような叫び声を上げ、執務机に崩れ落ちた。顔を顰め、鳴り続ける通話は決して受け取らない。先ほど皇帝たちを圧倒した「第四皇子」の威厳はどこにもなく、そこにあるのは、ただ酷くもろい、硝子のような、限界の少年だった。


「あ、そうだ。……オアンが行って来なよ」


ひらめいた、とでも言うようにアイクが顔を上げた。


「俺がか? 別に構わないが、……ふむ。それは総帥としての命令か?」


オアンネスが尋ねると、アイクは首を斜めに傾げ、目隠しの奥から、あどけない上目遣いを見せた。


「んーー……友人としてかな」


お願い、と甘えるような声音。サキが自分を「ミミちゃん」と呼び、家族のように接したからだろうか。かつては忌み嫌っていた「友人」という不確かな言葉が、今のアイクには唯一の酸素のように感じられた。


「……もう、本当に、つかれたんだ。一秒も、考えたくない」


そのボソリと漏れた本音は、血を流すよりも痛切な響きを伴っていた。

オアンネスは深く、長く、溜息を吐いた。そして、大きな、温かい掌でアイクの頭を乱暴に、けれど慈しむように撫でた。


「……友人の頼みとして、行ってくる。君は少し、脳を休めろ」


オアンネスの姿が、ヴァルプトーアの光の中に消えていく。

一人残された執務室は、不気味なほどに静まり返っていた。

アイクはしばらくの間、机に突っ伏したまま動かなかった。サキがいれば「労基が黙ってないよ!」と騒ぎ立てるだろう、その不在の静寂。


アイクはゆっくりと顔を上げると、ふらつく足取りで執務室を出た。

向かう先は、冷たい地下にある安置所。

サキが最後に残した熱が消えてしまう前に、彼は、独りでその現実と向き合わなければならなかった。

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