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ヴェネルッツ邸。

かつて皇族の隠れ家として使われたその邸宅は、今や湿った夜の帳に深く沈み、静謐という名の物理的な重圧を放っていた。


単身で乗り込んだアイクは、門番に「夜天の檻」の名を告げる。重厚な鉄門が、錆びた悲鳴を上げて開く。その音は地獄の蓋が開く音、あるいは――幼き日に自分を閉じ込めていた監獄が、再び貪欲に口を開けた音に似ていた。


四階、賓客を招くための最上階。

扉を開けると、そこには夜の静寂を極限まで煮詰めたような緊張感が漂っていた。

部屋を照らすのは、壁に掛けられた燭台の仄暗い焔のみ。黒いフードで正体を隠した三人の男――第一、第二、第三皇子。そして、その中心に座するのは、帝国の絶対守護者であり、アイクにとっては「製造責任者」に他ならない皇帝だった。


(お父様まで……。わざわざ家族会議の場に僕を呼んでくれるなんて、盤面を整える手間が省けたね)


アイクが足を踏み入れた瞬間、部屋の温度が劇的に下がった。

皇族たちの目に宿ったのは、軽蔑でも恐怖でもない。ただの「絶解」だ。裏社会を統べる「子供の皮を被った悪魔」という噂を、ただの比喩だと思い込んでいた彼らにとって、目の前の小さな影はあまりに現実離れしていた。


何より異質なのは、その歩みだ。両目を厚い布で覆いながら、アイクは絨毯の細かな刺繍一つ踏み外すことなく、澱みのない足取りで皇帝へと寄ってくる。


「私が、子供に見えますか?」


アイクは不敵に笑い、被っていたフードを乱暴に払った。

わざとらしく、明るい「茶髪」のウィッグを指先で弄んでみせる。


「あなたたちの認識は、果たして正しいのでしょうか? 私の『視界』には、あなたたちが酷く滑稽で、無防備に映っていますよ」


歪な笑みを浮かべるアイク。目隠しの奥から放たれるのは、数多の命を紙屑のように処理してきた屠殺者の、冷酷な観測の光だ。


「よく来てくれたな。……茶でもどうだ?」


沈黙を破ったのは皇帝だった。咳払いで支配者のペースを強引に引き戻し、手元のティーカップを勧める。その動作に揺らぎはない。だが、アイクは「視て」いた。皇帝の鼻腔が、アイクから漂う――血と硝煙、そしてスラムの泥が混じったような異質な気配に、生理的な嫌悪で僅かにひきつるのを。


アイクはその誘いを、鼻で笑って一蹴した。


「本題に入ってください。忙しい合間を縫って、わざわざ『来訪してあげた』のですから。……私のお茶の好みは、もっと鉄の味がするものですよ」


あえて傲岸不遜な態度で、アイクは皇帝の向かいに腰を下ろした。皇帝の眉がピクリと跳ねる。帝国の絶対者にこれほどの不敬を働く者は、この地上に二人といない。


アイクはそれを見て、ニィイっと、裂けるような笑みを浮かべた。心の底から、この「歪み」を愛でるように。


「あはっ、よかった。あなたたちなら、少しは退屈を紛らわせそうです」


獲物の内臓をかき混ぜ、その色の変化を楽しむ蜘蛛のような愉悦。

理性的で高貴であればあるほど、そのプライドを泥靴で踏みにじられた時の絶望は美しい。


「我らはそなたに依頼を頼みたい。」


皇帝が厳かに口を開く。その声には、一国の主としての暴力的なまでの重圧が籠もっている。


「ええ、存じております。夜天の檻は帝国の裏を統べていますからね。……下水のネズミの死骸から、貴族の寝室で交わされる醜い愛の言葉まで」

「ふっ。……銀の歯車に、その座を奪われかけているの間違いではないか?」


横から冷笑を投げたのは、第二皇子だった。アイクの神経を逆撫でするための、浅薄な挑発。しかし、アイクはそれを柳に風と受け流し、さらに笑みを深める。


「奪われる? ……あぁ、あのネズミたちのこと。あれは私が、退屈しのぎに飼っているモルモットですよ。……で、依頼はなんです?死体探しなら、うちの葬枢卿を貸しましょうか。」


その下俗で無慈悲な言い草に、第一皇子がたまらずといった様子で、扇子をテーブルに叩きつけた。


「……無作法が過ぎるぞ。先ほどから黙って聞いていれば、死体だのゴミだの。貴公のような『ドブ鼠の王』に。その汚らわしい口を閉じろ」


第一皇子の瞳には、明白な蔑みと、吐き気を催すような拒絶が宿っていた。彼にとってアイクは、高貴な庭園に迷い込んだ異臭を放つ獣に過ぎない。アイクはその冷たい視線を浴びて、なおも愉悦を深めた。


「あはっ。相変わらず言葉の純度に厳しいのですね。美しく整えられた庭園の中にいると、現実の匂いが鼻につくのでしょう? 同情しますよ、その狭い世界観はこにわに」

「貴様……ッ!」


第一皇子が立ち上がろうとするのを、皇帝が無言の手制で制する。第一皇子は屈辱に唇を噛み、アイクを「排除すべき汚物」として射殺さんばかりに睨みつけた。高貴な彼らにとって、この少年の発言は、純粋な「汚物」に等しかった。

だが皇帝は無言のまま、一枚の肖像画をテーブルに置いた。

そこには、今よりもずっと幼く、そしてまだ光を信じていた頃の、「アイザーク=フルイド=ヴェルエリン」が描かれていた。


「五年前、失踪した我が息子――第四皇子の調査だ。」


アイクの思考が一瞬、空白に染まった。

予測していたのは、軍事同盟か、あるいは対立組織の殲滅依頼。

まさか、自分という「腫れ物」を、今さら探し出せという、腐った善意のような要求が来るとは。


「意外、でしたね。……あんな、黒髪の不穏分子。不気味なだけの第四皇子殿下を探してどうするのです? えらい方々の考えることは分かりませんねぇ。失踪したまま、どこかの溝で野垂れ死んだことにしておいた方が、あなたたちにとっても好都合だったのでは?」


わざとらしく肩を竦め、かつての自分をゴミのように貶める。

その瞬間、ドォン!と、空気が爆発したかのような音を立てて机が叩かれた。


「ふざけるなッ! あいつを、……アイクを、そんな汚い言葉で悪く言うのは許さん!」


叫んだのは、軍部に身を置く第三皇子だった。その瞳には、紛れもない怒りと、弟を想う悲痛な情熱が宿っている。

アイクは驚きに、今度こそ言葉を失った。


(……あぁ、本当に。計算外だ。)


もう幕引きはしたはずだった。

アイクは一度目を閉じ、そして、ゆっくりと目を開けた。

もはや、観測を続ける必要もなかった。ここからは、ただの残酷な取引だ。


「……いいでしょう。取引といきましょうか。それと引き換えに、ここに囚われている私の駒、オアンネスをいますぐ解放してください」

「断る。こちらの要求を無視されたら困る。そなたが目標を達成するまでは、人質として預かっておくのが道理だ」


皇帝の冷徹な一言。急速に冷気が、物理的な圧がこの部屋を包み込む。アイクはクスクスと喉を鳴らして笑った。


「道理? ……対等だとでも思っているのですか? 我が『夜天の檻』が夜を統べているからこそ、あなたたちは昼間の平和を享受できている。それをゆめゆめお忘れなきよう」


そんなアイクに、皇帝が鼻で笑う。


「おや、そなたはその右腕のために、わざわざ単身でここへ来たのではないのか? 意外に情に脆いことだ」

「情? っあはははっっ!おかしいな。あんな情に駆られて隙を見せた『ゴミ』なんて、本当は捨ててもいいぐらいですよ。私が今日訪れたのは、あくまで私自身の利益のため。それ以上でも以下でもありません」


冷徹に、皇帝の切り札を無価値なガラクタとして一刀両断する。ゴミ。その言葉が出るたび、皇子たちの顔に隠しきれない不快感が走る。神聖な場を汚されたような、生理的な嫌悪。


「……どこまでも卑しい。命を数としてしか数えられぬその精神、まさに家畜のそれだな」


第一皇子が、扇子の先でアイクを指し、吐き捨てるように言った。彼の価値観では、部下を「ゴミ」と呼ぶアイクの存在そのものが、人の形をした何か別の化け物に見えている。


アイクはその「家畜」という蔑称を、極上の褒め言葉のように受け取って笑う。


「家畜、ですか。いいですね。……では、その家畜に『愛する第四皇子』の運命を握られている気分はいかがです?」


アイクはゆっくりと立ち上がった。


「あんなゴミを、私との交渉の切り札だと思っているだなんて。がっかりですよ。交渉は決裂でよろしいですね? ……あぁ、オアンネスはもう殺しておいていいですよ。無能な駒は処分するのがうちのルールですから」


その徹底した非情さに、皇帝は喉を鳴らした。


皇帝が銀の歯車ではなく、夜天の檻を頼るのには理由がある。表層の勢力は拮抗しているように見えるが、組織の深部――その精度と冷酷さにおいて、銀の歯車は決してアイクの組織に敵わないことを、皇帝の直感が警告していた。


「……わかった。解放しよう。そなたの言う通りだ」

「わかればよろしいのです。……さて、調査の件ですが。どの程度まで? 生死のみ? それとも失踪後の全てのルートを辿れとおっしゃる? 」

「わかることは全て欲しい。たとえあの子が……アイクが、死んでいたとしても。その死因の一秒前まで調べて、私に報告せよ」


アイクは皇帝に、心底がっかりした。

目の前の息子に気づきもせず、失った後にだけ「情」があるような振る舞い。今更なのだ。すべてが、あまりに遅すぎる。


「本当に、よろしいのですね? 殿下は……かつての姿ではもはやありませんよ」


第四皇子の現在地を掌握しているという宣言に他ならない挑発。

第三皇子が椅子を蹴らんばかりに、獣のような殺気を放つ。


「あはっ。なんて余裕のないお姿。高貴な方々も、身内のこととなると『ゴミ』の扱いに困るのですね」


屈辱に歪む彼らの顔を、アイクは一音も見逃さずに楽しんだ。


「……連絡手段についてだが、どうする」


皇帝が苦々しく問う。正直、連絡手段などいらない。この場で正体をバラせばそれで終了だ。だが、あえてこの茶番を極限まで引き延ばし、彼らが「自分たちを捨てた怪物」に頼らざるを得ない状況を骨の髄まで味わせる。


「ご心配なく。こちらを」


アイクが懐から取り出したのは、掌に乗るサイズの、四面体の魔導通信機だった。

好奇心に目を揺らしたのは、魔導技術に明るい第二皇子だ。


「これは……まさか、四面体テトラヘドロンの通信機か?」

「ええ。私が独自に開発したものです。魔石の波長を固定し、声のみをリアルタイムで伝達します。……横にある出っ張りを押せば通信できますよ。試してみますか?」


アイクは自分の通信機を取り出し、軽薄に振ってみせた。


「なっ……!!」


驚愕。帝国の魔導士たちが数十年かけても到達できなかった小型化と、障壁を超えたリアルタイム通信。


「いや、いい。……本物だということは理解した」


第二皇子は、隠しきれない学究的な興奮と、それを生み出したのが目の前の人物であるという事実への恐怖を綯い交ぜにした声を上げた。


「さぁ。では約束通り、私の手元にある不出来なゴミを解放してください」


皇帝が合図を送ると、拘束され、他人の返り血で赤く染まったオアンネスが引き立てられてきた。


「総帥……」


オアンネスの声は、かつてないほど深い自責の色に染まっていた。アイクはそれを視界の端で捉えながら、淡々と告げる。


「一足先に戻っていなさい」


アイクは、先ほどから綿密に脳内で組み上げていた転移術式『ヴァルプトーア』を起動させた。空中に、幾何学的な光の裂け目が生じる。


「は……!? 転移だと!?」


第二皇子が絶叫に近い声を上げた。物理法則を無視したその技術。オアンネスはアイクを気遣うような、湿った視線を一瞬だけ見やると、主の命令に従い、黙って光の中へと消えていった。

術式が消えた後、部屋には再び、耳が痛くなるほどの静寂が訪れた。


「……第四皇子の調査、確かに交渉成立だ。……そなたの正体は、あえて問わんが。これほどの力を持つ者が、なぜ……」


皇帝の言葉を遮るように、アイクは笑い始めた。

最初はクスクスと、肩を震わせる小さな笑い。それが、だんだん、狂気を含んだ高笑いへと変わっていく。


「ふっ……。ふ、あはははっ、あはははははッッッッ!!!」


その歪さに気圧されながらも、皇帝は苦々しく問う。


「何がおかしい。不敬であるぞ」

「いいえ、いいえ……あまりに、滑稽なので。……まだ、わからないのですか?」


アイクは、偽りの「茶髪」を乱暴に剥ぎ取った。

その下から現れたのは、夜を凝縮したような、あの忌まわしい「漆黒の髪」。

そして、アイクが目隠しの布を外した。

その瞳の奥に宿る、冷徹で、すべてを拒絶するような光が、五年前、失踪した第四皇子のそれと重なった瞬間――。


アイクは、かつてないほど無邪気に、そして最高に残酷な笑みを浮かべた。


「おとうさま! お兄様方! お久しゅうございます。……会えて、すっごく嬉しいなあ!」

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