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下の階から響く怒号と、不揃いな靴音。

それは静謐な執務室の空気を、濁った熱気でじわじわと侵食していく。


サキと暇を潰すのが日課のようになってから久しかった。サキがアイクの淀みない筆致を、まるで魔法を見るかのような瞳で感嘆して眺める時間。そのささやかな均衡が、今、崩れようとしていた。


「なんか騒がしいね、ミミちゃん」


サキの不安げな声。アイクはペンを置き、目隠しの下で「盤面」を再構築する。

ヴェロニカ直属の第五席。彼が引き連れた反乱分子は、今まさに階下を制圧しつつあった。


あぁ、今日は最悪の日だ。ヴェロニカ直々に采配したオークションのためにオアンネスの「番犬」は出払い、ゲルフの「狂犬」も別件の任務についている。この牙城を護るのは、今やアイク自身の「知略」のみだった。


「サキお姉さん。この部屋から出ないで。そして、隠れてて」

「え? どうしたの急に」

「いいから。……絶対に出ちゃダメだよ」


クローゼットの暗がりに彼女を押し込み、唇に指を当てて「しーっ」と微笑む。アイクがこうすれば、サキは幼子のように純粋な信頼で、その小さな檻に身を委ねる。


目隠しをきつく締め、アイクは執務室の重厚な扉を開けた。廊下を歩き、階段へ向かう。

ねっとりとした反逆者たちの熱気が肺を焦がす。


「ヴェロニカ直属第五席。……失望したよ。ヴェロニカの下では出世の見込みがないから、と反乱を起こすなんて。君の盤面はなんて浅はかで醜いんだ」


廊下に染み渡るアイクの声。ゆっくりと階段をアイクは降りた。

カツ、カツ、カツ、存在を示す悪魔の化身に階下が水を浴びせられたかのようにシーンと静まり返った。


そこにいたのは、ヴェロニカへの不遜な野心を、アイクへの殺意という大義にすり替えた執行司祭だ。


「総帥。これは、お見苦しいところを」


第五席は慌てる様子もなく、むしろ「読み通り」とさえ言いたげな態度でアイクを迎え入れた。参謀部隊の頂点に座る彼は、アイクの威圧にすらポーカーフェイスを崩さない。


(そうこなくては、面白くない)


前総帥との抗争以来、力押しの脳筋ばかり相手にしてきたアイクにとって、知略の火花は久々に胸を疼かせる刺激だった。


「あはっ。その姿勢が、いつまで持つか楽しみだねぇ?」


ニンマリと口角を上げる。楽しくて、たまらない。


「じゃあ、まず答え合わせをしよっか。君は実に三ヶ月前から反乱を企てていた。ーーそうだな,きっかけじゃ、葬枢卿ヴァルター故障品の処分を渋っていると、愚痴を聞いたことだろう?内通者と結託したね?

暗殺部隊第三席、そして筆頭従士ウーヴェ。……あぁ、そんなに目を見開かなくていいよ。心拍の音がうるさい」


第五席の額に冷や汗が流れるのを、アイクは愉悦を込めて「視て」いた。だが、男は驚きを押し殺し、卑屈な笑みを貼り付け直す。


「知ってて放置してくださり、大変助かりましたよ、総帥」


アイクの背筋に、微かな違和感が走った。

ーー盤面のどこだ。僕の知らない駒が、どこで牙を剥いている?


その瞬間。


アイクの背後の「虚空」が、粘りつくような殺意と共に揺れた。

暗殺部隊、第3席。

感情も意志も消去し、ただ「標的を屠る」という条件反射のみで動く機械。


アイクは彼の脅威を理解していた。だが、第三席が殺意という心理さえ消失させ、体温の揺らぎ一つ見せずに「物理的な現象」として背後を取ることまでは、予測の範疇を超えていた。


観測から完全に脱落した、絶対的な死角。

首筋に迫る冷たい刃。


――あぁ、一歩遅い。


「ふっ……、あははっ! あははははッッッッ!!」


見開かれたアイクの瞳から、目隠しの隙間を縫って、爛々とした「蒼」が溢れ出した。

死を目前にした極限の興奮が、アイクの脳を焼き、眠っていた色を強制的に呼び覚ます。

ただ「死」という名の最高の娯楽に酔っていた。


アイクの喉から、狂ったような歓喜が溢れ出した。

自分が負ける。自分が死ぬ。

予測不能の幕引き。絶対的な定数だった自分の命が、未知の因子によって乱される快感。


強烈に感じる「生」の気配。

背筋を駆け上がる戦慄。目の前の現実が、色鮮やかな光を放つ。


――ゲームオーバー。


その最高の結末に酔いしれ、アイクが声を上げた瞬間だった。


「――っ、ミミちゃん!!」


銀世界の静寂を切り裂くような、少女の叫び。

「隠れていろ」という命令を破り、ただアイクの身を心配して、に居ても立ってもいられなくなった不純物(サキ)が、飛び出してきた。


「……え?」


アイクの瞳に宿っていた歓喜の蒼が、一瞬で凍り付いた。

鮮やかな発光は消え、代わりに、深海の底のような、光を一切受け付けない「昏い蒼」へと変質していく。


アイクの視界を、サキの細い体が、ひらりと蝶のように横切る。第3席の刃は、アイクの首を刈り取るはずの軌道のまま、サキの薄い胸を深く、無慈悲に貫いた。

鮮血が舞い、アイクの目隠しを汚していく。

ドサリ、と肉の塊が落ちる嫌な音が響いた。


「……ぁ……」


サキが、床に沈む。

アイクの世界から音が消えた。

その瞬間、アイクが恍惚として眺めていた極彩色の死は、色を失ったただの泥水へと成り果てた。

サキの体から溢れる朱が、アイクの目隠しを汚し、温もりを奪っていく。


「仕留め……あ、いや、女を……!」


狼狽する第五席。獲物を仕留め損なって距離を詰めようとする第三席。


「――っ!」


反射だった。

アイクは袖から杖を引き抜き、第3席へ向けてただ「破壊」を放った。


ボオオオオッッッッ!!


弁明の余地もない暴力。第三席は叫ぶ間もなく、炭化するまで焼き尽くされた。


「魔術……!!」


驚愕の声が階下から響いたが、それも構わず第五席を焔の渦へ飲み込む。


あの日以来だ。初めて魔術で人を殺した、あのスラムの歓喜の日以来。

魔術を使えば、ただでさえつまらない世界が、酷く安っぽく退屈なものに成り果てる。予測も計略も必要ない、ただの蹂躙。

それは、アイクが自分に課してきた縛りを自ら焼く行為だった。


静寂。

焼けた肉の匂いが立ち込め、黒く焦げた広間がアイクの失策を嘲笑う。


指先に残る熱。吐き気を催すほどの自己嫌悪。

物理も心理も関係ない、最悪の解決策。


「み、……みちゃ……」


微かな、掠れた声。

アイクは我に返り、血の海に膝をついてサキを抱き上げた。

……あぁ、助からない。

見えすぎてしまう瞳が、彼女の命の灯火が消えかかっていることを残酷に突きつける。


「なんで、庇ったの。なんで、出てきたの。……僕は、死んでも構わなかったのに」


アイクの声が、震える子供のように弱々しく響く。

サキは、こぽりと血を吐きながらも、どこか満足げに笑った。


「ば、か……勝手、に……からだ……うごい、……ちゃったのよ……」


サキが安堵したように、微かな力でアイクの服を握る。

その瞳に、現実とは違う景色が映り始めているのを、アイクは「視て」しまった。


「あぁ、やっと………夢から……」


そこで言葉が途切れた。

少女の手が力なく落ちる。

アイクの鼓膜に、世界が醒めるという「無」の音が聞こえた。


(――夢だったんだ、こちらは)


彼女にとって、この異世界は、アイクという少年に出会った時間は、ただの夢だったのだ。

醒めてしまえば、痛みも苦しみも届かない場所へ、彼女は帰っていった。


そして、アイクだけが取り残される。

アイクは夢を見ることも許されず、この地獄から醒めることもできない。

アイクは目隠しをむしり取った。剥き出しの瞳に、残酷な現実が突き刺さる。


奪われたのは、警戒を怠った自分の落ち度だ。

死んだのは、逃げ場を誤ったそいつの自己責任だ。


「やられた奴が悪い」――それが、彼が世界を観測する際に使い古してきた、生存のための不文律。


この、胸の奥で焼けた鉄を飲んだような熱さも、視界が滲む不快感も、すべては「計算ミス」に対する苛立ちに過ぎない。


「…………」


アイクは溢れそうになる何かを無理やり喉の奥へ呑み下し、ポツリと呟いた。


「……自業自得だ」


その声は、乾いたナイフのようだった。


「盤面を放り出した僕も。……言いつけを守らず、勝手に飛び出してきた君も」


自業自得。自己責任。

その冷たい言葉を繰り返すたびに、アイクの心は軋み、悲鳴を上げる。

自分の美学を捨ててまで放ったあの火炎よりも、目の前で静かになっていくサキの熱が、アイクの理性を容赦なく焼き尽くしていく。



サキの穏やかな死顔が、アイクが必死に守り続けてきた冷徹な観測者としての仮面を、音を立てて砕いていく。


スラムのルールでは説明のつかない、救いようのない絶望。

アイクは、ただ、サキの冷えゆく手を、骨が砕けるほど強く握りしめることしかできなかった。



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