18
夜。銀の月が天頂に高く掛かり、青白い光が執務室の絨毯を凍りつかせている。
アイクとオアンネスは、淡々と書類の山を裁いていた。静寂を支配するのは、ペンの走る音と、時折響く紙の擦れる音だけだ。
突如、アイクの背後に音が死んだような黒い影が降り立った。
「葬枢卿ヴァルター。君の部隊の第3席のことなら、ヴェロニカに一任した。報告はあちらへ持っていけ」
振り返ることもなく、アイクが言葉を投げる。視線は書類の数値から一度も外れていない。
「……ヴェロニカ枢機卿直属、第5席の動向については」
淡々と、血の通わぬ声が応じた。ヴァルター。感情を削ぎ落とした暗殺部隊の長である。
「知ってるよ。ヴェロニカが利用しようと画策している。そちらの監視も、ヴェロニカに預けてある」
了解、とでも言うように影が微かに揺らぎ、そのまま大気に溶けるように消え失せた。
「ネズミが3人も。……あぁ、めんどくさいなぁ、もう」
ペンを投げ出し、アイクは子供のような愚痴をこぼした。すべてを見通しているがゆえに、結末の分かっている騒動は彼にとって退屈でしかない。そんなアイクを揶揄うように、オアンネスが低く笑った。
「なんだ? 自分はあちらに、ヴァルターの駒を6人も混ぜて調整しているくせに」
「それはそれ、これはこれ。……まるでモルモットの餌やりを管理している気分だよ。退屈すぎて、脳が腐りそうだ」
大きく伸びをして、アイクは椅子から立ち上がった。
「飽きた。僕はもう寝る。オアンも、書類は程々にね」
「ああ、おやすみ」
扉へ向かいかけたアイクが、ふと思い出したように足を止める。
「ああ、そうだ。近々、ヴェロニカ主宰のオークションに君も動員されるらしいけど。また襲撃者が来るから、確実に捕らえておいてよ」
それは、命令というよりは確信に近い。狂犬部隊ですら手を焼いた第三勢力の襲撃者。だが、この「檻」の守護者であるオアンネスなら、赤子の手をひねるより容易く片付けるだろう。アイクは絶対的な信頼という名の「定数」を置いていた。
「了解した」
短く返る承諾。それを背に、アイクは今度こそ夜の闇へと消えていった。
――シャーッ!!
カーテンが乱暴に開かれる音が、鼓膜を突き刺した。高く登った陽光が、眠りを貪っていたアイクの意識を無慈悲に刺激する。
「……うーゔぇ、まぶしい……」
唸りながら呟いたアイクだったが、視界に飛び込んできたのは整った従士の顔ではなく、底抜けに明るい顔だった。
サキが、満面の笑みでアイクを覗き込んでいる。
「不健康でしょ! 早起きしなきゃダメだよ!」
「は……? え? ……なんで、サキお姉さんがここに?」
ここはアイクの私室。部下であっても許可なく踏み込むことは許されない領域だ。
「え、なんか総帥に用があるって言ったら、みんなすんなり通してくれたよ?」
アイクは、顔を覆いたくなる衝動を抑えた。
あぁ、そうか。サキは「総帥のお気に入りのおもちゃ」として全館に知れ渡っている。部下たちは気を利かせたつもりなのだろうが、その不要な融通が、今の安眠を奪っている。
「サキお姉さん、まだ寝かせて。僕、眠いんだ」
「……あんた、もしかして夜更かししてたんじゃないの?」
瞼を擦りながら布団に潜り込もうとするアイクを、サキが訝しげに見下ろす。半分夢に落ちながら、アイクは「ん、そう」とだけ答えた。
「もーー! 子供は早く寝ないと大きくならないよ! 何? 昨夜は遊んでたの?」
「ちがうしぃ。おしごとだもん……」
意識が混濁した状態で、アイクの本音が漏れた。
すると次の瞬間、鼓膜が破れんばかりの絶叫が部屋を震わせた。
「労基!! ミミちゃん、労基違反しちゃダメぇーー!!」
「ろう……き……?」
知らない単語だったが、とにかく彼女が騒ぎ立てる限り安眠は望めないと悟る。アイクは一度起きて彼女を追い払い、その後にまたベッドへ潜り込む算段を立てた。
「わかった、起きるってば」
渋々と、ふわぁと大きなあくびをしてベッドから抜け出す。
「サキお姉さん、僕、着替えたいんだけど。……まさか着替え姿まで観察するつもり?」
これを言えば、流石の彼女も部屋を出ていくだろう。その隙に扉に鍵をかけよう――そう考えたアイクに、サキは事もなげに言った。
「あ、手伝おうか? あの服、一人じゃ着にくそうだったもんね」
(……なんで、そうなるんだ)
普通は出て行く流れだろう。逃げ道を塞がれたアイクは、自分の計算がこの少女にだけは全く通用しないことを、改めて思い知らされるのだった。
「サキお姉さん。僕、お仕事中なんだけど。いつまでここにいるつもり?」
結局、サキは金魚のフンの如く執務室までついてきた。
アイクは諦めて執務机に向かうが、彼女の奇妙な視線が突き刺さって集中できない。
「いや、なんか絵面がさ……。まぁ中身が大人なのは知ってるし、仕事ができるのもわかるんだけど」
言い難そうにサキが呟く。
「でも!! どうしても『労基』って言葉が頭から離れないっていうか! 子供がこんな難しい顔して書類書いてるの、法的になんかアウトな気がする!」
帝都の裏社会を統べる「夜天の檻」の総帥を前にして、サキは何を言っているのか。
アイクは深いため息を吐きながら、ペンを走らせた。
神のような視点で世界を弄ぶ夜の支配者は、朝の光の中で、一人の少女による常識という暴力に完膚なきまでに叩きのめされていた。
「……アウトって言われてもね。そもそも僕たちの組織に法律なんて通用しないんだよ。サキお姉さん」
アイクは眉間を揉みながら、極めて論理的な反論を試みた。しかし、サキには馬耳東風である。彼女は執務室の豪華なソファにどっかりと座り、あろうことか「夜天の檻」の機密事項が記されているかもしれない書類を、まるでチラシでも眺めるような無防備さで手にとった。
「だめだよ。子供はもっと、こう……泥だらけになって遊んだり、嫌いなピーマンを残して怒られたりするべきなの! 法律がダメなら、私が許しません!」
「ピーマンなら、この前ウーヴェが細かく刻んでミートソースに混ぜてたよ。……見てたから知ってる。完食したし」
「そういうことじゃないの! 隠れて努力するウーヴェ君、健気すぎでしょ……」
サキは勝手に感動している。アイクは溜息をつき、再びペンを走らせた。
だが、そのペンが止まる。
サキがアイクの頬をぷに、と指で突っついた。
「……何。汚れるから触らないでよ」
「いやぁ、改めてまじまじ見ると、本当にお人形さんみたいだなって。そのまつ毛の長さ、一本分けてほしいくらいなんだけど。これ、将来は帝都中の女の子を泣かせる超絶美形になるね。間違いない」
「将来なんて興味ないよ」
そう冷淡に返すアイクをサキは意に介さない。
視界の端で、サキがカバンから何かを取り出し、アイクのデスクの「デッドスペース」――すなわち、彼が最も効率的に手を動かすために空けておいた空白地帯――に、ことりと置いた。
「……何、これ」
「糖分補給。ミミちゃん、脳みそ使いすぎ。それ、私がいつも持ち歩いている飴だよ。」
ただの、サキの善意という名の不純物。
「仕事中は食べないよ。」
「大丈夫、大丈夫。舐めるだけでだいぶちがうと思うよ?はい、あーん」
拒絶するのは簡単だ。冷たく突き放し、彼女をこの部屋から摘み出せばいい。そうすれば、また夜のように美しい、静謐な支配者の時間が戻ってくる。
だが。
アイクは知っていた。この不純物が、自分の中にあった退屈という名の渇きを、ほんの少しだけ潤していることを。彼女の無邪気さが、心地よいノイズとして響いていることを。
「……一個だけだよ。それで満足したら、あっちのソファでおとなしくしてて」
観念して口を開ける。
甘酸っぱい、安っぽいベリーの香りが口いっぱいに広がった。帝都の最高級の菓子職人が作るどんな芸術品よりも、それは生活の味がした。
「おいしい?」
「……普通。砂糖の塊だね」
「素直じゃないなぁ」
サキは満足げに笑うと、今度はアイクの肩を後ろから揉み始めた。
「あ、ここ凝ってる。ミミちゃん、実はもう肩こり持ちでしょ」
「やめてよ、くすぐったい……! あははっ、ちょっ、サキお姉さん、力加減がおかしいよ」
「えー、もっとリラックスしなよー。ほらほら」
執務室に、アイクの――総帥の、あどけない笑い声が響く。
重厚なマホガニーのデスク。数多の命を奪い、組織を導いてきた血塗られた書類。その上で、飴が不釣り合いに光っている。
窓の外では、組織の人間たちが緊張感を持って行き交っているだろう。オアンネスは次なる襲撃に備え、ヴァルターは影で息を潜めている。
だというのに、この部屋だけは、サキが持ち込んだ「労基」という名の平穏に支配されていた。
(……あぁ、本当に。盤面が、めちゃくちゃだ)
アイクはペンを握り直す。
視界の端で笑うサキを見て、彼は不機嫌そうに、けれどどこか嬉しそうに口角を上げた。




