17
サキが目の前に座って、喋る。それをどこか夢のようにアイクは聞いていた。
「……ちゃん、み、ちゃん、ミミちゃん!!」
鼓膜を震わせる大声に、アイクは白昼夢から覚めたように肩を跳ねさせた。
視界が焦点を結ぶ。目の前には、身を乗り出して自分を覗き込むサキの顔があった。
「びっくりした。大きな声出さないでよ、サキお姉さん」
「だって、ミミちゃんさっきからぼーっとしてるよ。どうしたの? 体調悪い?」
正体を知ってもなお、変わらない態度。恐怖による服従も、打算的な媚びもない。それは勘違いゆえの図太さなのか、それとも彼女の魂に刻まれた不治の善性なのか。
アイクには、彼女がこの殺伐とした帝都に咲く、場違いな外来種の植物のように見えた。
「んー、別に?」
「えぇ? じゃあ……寝不足とか?」
世話焼きでおせっかい。かつて、自分の身の回りを完璧に整えていた「誰か」の気配を重ねてしまう。
「まぁ、実はお気に入りのおもちゃを失くしちゃって」
「可愛い!!……じゃなくて、そうなのか。一緒さがしてあげようか? 最後どこで遊んだの?」
反射的に「可愛い」と叫ぶサキを、アイクはじとっとした目で見つめた。サキは慌てたように取り繕った。
「いや、いいよ。だってもう、戻ってこないからね」
「そうなんだ?でも失せ物は忘れた頃に見つかるらしいし、気を落とさないでね!」
今朝、ウーヴェは来なかった。アイクからすれば潔癖なほど自分に相反する気持ちをゆるせないウーヴェならば。見透かされた暁にはアイクのもとを去るだろう。
予想通りの展開であり、呼吸をするのと同じくらい、何でもない「計算通りの事象」のはずだった。なのに、指先が少しだけ冷たい。
「ありがとうサキお姉さん。……それで、お話って何?」
「え? 聞いてなかったの? もぉーーいけない子ね」
『悪い子はお母様が会ってくださいませんよ』
不意に、脳裏をよぎる。氷の針で脳を刺されたような不快なフラッシュバック。サキと対面してからというもの、アイクは、常にノイズに晒されていた。
「……そういえば、お茶も出さずにごめんね。上手じゃないけど淹れようか」
返事も待たず、アイクは逃げるように立ち上がり、隣の給仕室へ入った。
茶葉の量、湯の温度。ウーヴェなら数秒で済ませる工程が、今のアイクには酷く煩わしく、そしてひどく静かだった。
盆を持って戻ると、サキは放し飼いにされた小動物のように、物珍しげに部屋をキョロキョロと見渡していた。
「サキお姉さん、どうぞ。緑茶。きっとなじみ深いだろうと思って」
「わあ! ありがとう、ミミちゃん」
拘束もなく、この応接室で、サキは無防備に緑茶を啜った。その瞬間に見せた、遠い空を想うような郷愁の表情。
(……そういうところ、嫌い)
失った「何か」を正しく嘆ける彼女の健全さが。空っぽの自分には、毒のように眩しかった。
「あ、それでね。なんでグレちゃったのか知りたかったから、ミミちゃんの前世のこと、よかったらお姉さんに話してほしいなって」
ーーそういえば、そんな設定だった。
アイクは今の今まで、自分が「ミミ」という日本人を名乗っていたことを忘れていた。
「前も言ったけど、覚えてることは少ないんだ。朧げで。サキお姉さんは、日本人の時の意識のままかもしれないけど、僕は『フィン』としての意識の方が強くてね」
サキは「ああ」と納得したような顔をして、また予想外の方向に思考を飛ばした。
「じゃあ、フィンとして、フィンの人生を教えてくれる?」
捏造してもよかった。けれど、アイクは不思議と、本当のことを話し始めていた。
「家族は、お父様と、お母様。そしてお兄様が上に三人」
「男世帯なのね。むさ苦しくなかった?」
「……離れて暮らしていたから、別に。お父様とお兄様たちとは、ほぼ他人だったよ」
バンっ! とサキが机を叩いて立ち上がった。
「圧倒的愛情不足!!!!」
「……別に、それが普通だったから。なんとも思わないよ」
呆れるアイクをよそに、サキは「子供にはスキンシップが必要」だの「食事は家族で」だの、熱弁を振るい始める。アイクはその熱量に押され、逃げるように緑茶を一口飲んだ。
「子どもは愛情なしに生きられないんだから!」
『はい、母上』
無意識に、返事が口を突いて出た。
「え? ミミちゃん、私、別に母親じゃないよ? ……もしかして、お母さんからも愛されてなかったんじゃない!?」
サキの言葉に、アイクは咄嗟に自分の口を押さえた。
呪いだ。何年もかけて刻み込まれた「完璧な人形」としての条件反射。
「っ、ごめ、サキお姉さん。こんなこと言うつもりじゃなかった」
「あ。こっちこそごめんね。話の腰を折ってばかりで。……聞かせてほしいな」
「そうは言っても、特に……。何の思い出もないよ。家族って、そんなに必要?」
アイクの問いは、純粋な疑問だった。
サキは先ほどの勢いを潜め、夜の海のように静かな声で言った。
「ミミちゃん。家族ってね、心の支えになるの。だから、とっても大事なんだよ」
「……」
「何でも言って。疑問でも愚痴でもいい。私が全部受け止めるから」
胸を張る彼女がなんともいえない自信に溢れていたからだろうか。
その無垢なまでの傲慢さに、アイクの腹の底でドス黒い感情が疼いた。
「どうせ、僕のことなんて誰も理解してくれない。こんな、空虚な僕なんか」
サキの前だけ、調子が狂う。この世界の「理」を無視して踏み込んでくる彼女が、読みづらくて仕方がなかった。
サキは立ち上がり、アイクの目の前に跪いた。そして、その冷たい手を取った。
「理解してくれない気持ち、わかるよ。どうしてって思うよね。でもね、他人が他人を100%理解できないのは当然なの。……だからミミちゃんは、言いたいことを言わなきゃ。伝えなきゃ」
――僕は、他人のことが全部視えて、理解できるのに?
その反論は、胸の中に閉じ込めた。そもそも、なぜ自分は囚人に本気で向き合っているのか。ただの暇つぶしてこうしてサキと会っていたはずなのに。
コンコンコン。
規則的なノックの音。
「……どーぞ」
入ってきたのは、ヴェロニカだった。
どこかやつれ、隠しきれない怯えを纏った彼女は、アイクの隣に座るサキを見て、文字通り固まった。
「え、救世主がなんでここに? ……あぁ、総帥のお遊びって、そういう……」
「ヴェロニカ。要件は何?」
アイクの声が、氷の温度に戻る。
「え、っと、お取り込み中なら後で伺うわ。別に大したことでは……」
「いいよ。言って」
ヴェロニカは、冷や汗を拭いながら消え入るような声で言った。アイクはその怯えがすごく不愉快だった。アイクが求めているのは、計算を補完する対等な知性であって、震える振動計ではない。
「……この間の一件は、まだ私に一任されたまま? その、不手際が重なっていて、もし総帥の盤面を汚しているのなら……」
ヴェロニカは死を覚悟した顔をしていた。アイクが「飽きた」と言いながら、実は裏で自分を切り捨てるための罠を張っているのではないかと疑心暗鬼に陥っている。
「そうだけど? 僕、もう飽きたもん。好きなようにいじればいいよ。盤枢卿らしくね」
アイクは口角を上げ、蔑むように笑って見せた。室内の空気が物理的な重さを伴ってヴェロニカを圧迫する。
その瞬間。
パンっ!
軽快な音が響いた。
ヴェロニカは目を見開き、アイクは呆然として頭を押さえた。サキが、アイクの後頭部を軽く叩いたのだ。
脳裏をよぎるのは、かつてローザが撫でた、あの遠い日の「ポンポン」という音。あの時とは質が違う。侮蔑でも同情でもない、単純なダメ出しの音。
理解できない。サキは、なぜ恐怖しない? なぜ「総帥」としての自分を見ない? この「ミミ」という偽りの殻だけを、まるで本物のように扱い続けるのか?
混乱が、思考の回路を一瞬、白く焼き焦がす。
「ミミちゃん! 八つ当たりしちゃダメでしょ! 部下の人、可哀想じゃん。パワハラ、ダメ、絶対!」
「ぱわ……?」
腰に手を当てて憤慨するサキ。ヴェロニカは、心臓が止まるかと思った。
あの、悪魔の化身が。帝国の暗部を統べる総帥が。ただの少女に叩かれ、叱られている。
「ほら、なんで怒ってるのか、ちゃんと言葉にしなさい。曖昧な言い方は卑怯よ!」
無視しようと思えばできた。だが、そうすればサキの教育はさらにヒートアップするだろう。そう言い聞かせ、アイクは観念したように、ヴェロニカから視線を逸らして呟いた。
「……僕の盤面を、読み取ってくれなかったのが悪い」
「もっと分かりやすく! 上司の『察しろ』は無能の証拠だって、私のいた世界でも言われてたんだから!」
ヴェロニカは、もはや思考が溶けていた。
あの冷酷な総帥が、まるでおもちゃを取られた子供のような言い訳を、無理やり言わされている。
「僕が考えてること、頭ごなしに否定したヴェロニカが悪い……んだよ」
最後は、サキの「よしよし」という撫でる動作に屈した。
ヴェロニカは、アイクが崇高な「演技」をしている可能性を考えたが、彼の耳の先が赤くなっているのを見て、確信した。
サキは満足そうに、ヴェロニカの方を向いて微笑んだ。ヴェロニカは戸惑ったように返す。
「あ、えっと。……それは、本当に申し訳ありませんでした、総帥」
「……別に」
地獄のような沈黙をものともせず、サキはアイクの頭を撫で回している。
ヴェロニカは、自分が凄まじい場面に立ち会っているのか、それとも単なる幻覚を見ているのか分からなくなり、すごすごと退出することにした。
「ヴェロニカ」
「……はいっ!」
呼び止められ、肩を弾ませる。
「君の描く盤面は、きっと美しくはないだろうけど。でも、……有能なのは知ってる。オアンを好きに使いなよ。任せた。……あと、足元を掬われないようにね」
顔を背けたまま、ぶっきらぼうに投げかけられた言葉。
それは、アイクなりの、極限まで削ぎ落とされた歩み寄りだった。
「っ……。ありがとうございます。失礼いたしましたぁー!」
ヴェロニカは、転がるように応じた室を後にした。」
(そぉっか。……総帥って、よく考えればまだ子供なんだよねぇ……。)
彼女の心の中の「恐怖」は消えていなかったが、代わりに、今まで抱いたことのない奇妙な「親近感」が、一滴のインクのように広がっていた。




