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perfidus invitus

perfidus invitus-不本意な裏切り

ウーヴェは、膝をつきそうな足を叱咤して廊下を急いだ。

今日一日、帝都中を走り回らされた。おまけに先ほど、総帥の失態を目の当たりにして死ぬほど笑い転げたせいで、体力も精神力も完全に底を突いている。


「僕は別にっ、武力部隊の番犬じゃないんっすけどねえ……」


喘ぐように吐き出す。また減給と言われるんだろうか。

下僕の運命さだめを呪いながら、重い足取りで角を曲がった。


「おや、ウーヴェ。いいところに」

「ヴェロニカ枢機卿……。どうされたんです、僕に何か?」


声をかけてきたのは、いつもの優雅さがどこか影を潜め、くたびれた空気を纏ったヴェロニカだった。


「総帥のご機嫌、いかが?」

「――最悪ですよ」


ウーヴェは肺にある空気をすべて出し切るような長いため息を吐き、死んだ魚のような目を向けた。


「まぁ、そうだよねぇ……。はぁ、どうしよっか」


これ見よがしに肩を落とすヴェロニカ。ウーヴェは、彼女が「聞け」と無言の圧力をかけているのを敏感に察知した。瞼を痙攣させながらも、ウーヴェは下僕の鑑として問いを投じる。


「……何が、あったんです?」


待ってましたと言わんばかりに、ヴェロニカの目がぎらりと輝いた。


「総帥のご機嫌を損ねて、仕事を追加されちゃってね。ほんと無理。頑張ってるけど、どうやって『視れば』いいっていうの? 総帥のような未来予知レベルの思考回路を要求されるこっちの身にもなってほしいわよ。だというのにゲルフときたら…………」


延々と続きそうな愚痴の濁流。ウーヴェはそれを聞き流しながら、この組織で唯一、アイクに近い知性を持つ「盤枢卿」ですらこれなのか、と戦慄した。

アイクはヴェロニカに期待している。この組織内において、自分の孤独な盤面を、少しでも理解できる者がいるとすれば、彼女しかいないと信じている。

総帥が聞けば期待なんてしてないと一蹴するだろうが。

だが明らかなその期待は、ヴェロニカにとってはこの上ない重圧でしかなかった。


「……ほんっと、子供のようなお方ですね」


ウーヴェの零した呟きに、ヴェロニカが激しく同意した。


「間違いないわ! もう少し、いや、劇的に大人になってほしいわ。ほんっと、これが中間管理職の悩みってやつかしらね」


(違うと思います)


その一言を喉元で飲み込み、「そうかもですね」と無難な答えを返しておく。

ウーヴェは、アイクがふとした瞬間に見せる「理不尽なまでの子供らしさ」に、いつも足元を掬われる。

いっそ、完全に冷酷なだけの悪魔なら、躊躇わなかったのに。期待も、庇護も、名前を呼ぶ声も、すべてが彼を縛っていた。その幼さが、ウーヴェの忠誠心という名の鎖を、より複雑に絡め取っていた。


「ヴェロニカ枢機卿、すみません。僕、これから総帥に絶賛当たり散らされに行くところなんで。また後でお話ししましょう」

「ありゃ。悪かったわね。生きて戻りなさいよ」


ヴェロニカと別れたウーヴェは、手にしていた重い荷物を倉庫の隅に運び入れた。

埃っぽい空気の中、人気がないのを確認して、彼は壁の影に向かって短く言った。


「――第3席」


暗闇から、音もなく一人の影が滲み出した。ヴァルター直属の暗殺者。ヴェロニカが追っている「内通者」の片割れだ。彼の所属する部隊は諜報も兼ねているために最も銀の歯車に接触しやすい。それゆえ内部の情報は盲点である筆頭従士に、自らは銀の歯車のパイプ役をしている。


「……情報は?」

「今が好機だ。総帥は一連の襲撃事件の解決を、ヴェロニカ枢機卿に一任された。総帥はこの件の盤面から手を引いたと、そう判断していい」


ウーヴェの声は、先ほどまでのそれとは異なり、どこか乾いた響きを諦めを伴って帯びていた。






(おわんねぇええ……今日もまた徹夜コース……)


アイクの私室へ向かう廊下で、ウーヴェは内心で叫んだ。

主の寝室を整えるのは、彼にとって第一の駒であるための聖域だった。

書類をすべて回収し、アイクが好む温度の白湯を用意する。シーツの皺を一つ残らず伸ばしたその時、指先が凍りついた。

テーブルの上に、散々自分を揺さぶる原因となっていた名簿が置かれていたからだ。


(……本物だ。どうして、ここに……)


絶望が胸を突き抜けた。

懐の髪飾りが冷たい。


『お前の妹の戸籍が、裏入手したものだとバレたらどうなると思う?』


そう言って下卑みた笑みで脅された。

もっと早く、打ち明けるべきだったのか。


かつての枢機卿時代、泥を啜るような日々から自分を拾い上げてくれた主。「僕の駒として、美しく機能しろ」と命じた主は、駒に「家族()」という不純物が混じることを許さない。


アイクを裏切りたかったわけじゃない。ただ、彼に相談すれば、効率のために大事な「不純物」ごと消去されると確信していたから、黙って盗むしかなかった。

数ヶ月に及ぶ横領。外部組織への情報流出。すべては大切なものを隠し通すための、不毛な抵抗だった。


「ウーヴェ。まだそこにいるの」


いつのまにか部屋に入って、ベッドに腰掛けたアイクが、背を向けたまま声をかけた。目隠しは外され、黒色の髪が冷たい月光を透かしている。


「はい。……準備が整いました。お加減はいかがですか」


いつもの、完璧な従士の声。心臓の音が漏れているのではないかと錯覚するほど、冷や汗が止まらない。


「最悪だよ。今日は本当に、君たちのせいで計算が狂ってばかりだ」


アイクは投げやりな口調で言い、シーツの中に潜り込んだ。

ウーヴェは深々と頭を下げる。これが、自分が仕える主への最後の挨拶になるはずだった。


「……それでは。おやすみなさいませ、総帥」


静かに扉を閉めようとした、その時だった。


「ねぇ、ウーヴェ」


アイクの、低く、鈴を転がすような声が部屋を支配した。


「君の淹れるお茶は、いつも完璧だ。僕を裏切っている最中でさえ、一度も味が落ちたことがない。……僕はウーヴェのそういう、徹底して役割を演じきるところ、本当に好ましく思ってるんだよ」


ウーヴェの指が、ドアノブに張り付いたように動かなくなった。


「……何を、おっしゃって」


「君が横領した金額も、名簿を握っている連中の正体も、全部、知ってるよ。……僕を、誰だと思ってるの?」


アイクは一度も振り返らない。


「君は、僕が知らないところで僕を裏切って、勝手に僕に絶望して……。それで、これが最後だと思って、今も僕の世話を焼いている。……ふふ、滑稽だね。本当に」

「そ、う……すい……」

「いいよ、もう。……一晩だけ、猶予をあげる。その名簿を燃やすか、それを持って逃げるか。君の好きにしたらいい。」


アイクの声に、微かな温度が混じる。それは、観測者としての冷徹な言葉ではない。アイクなりの、精一杯の情だった。


「あぁ、安心しなよ。君を脅していた組織は、オアンがもう壊滅させた」

「――え」


ウーヴェの思考が白濁した。

その組織は、銀の歯車の傘下にある。下手に手を出せば、全面戦争の引き金になりかねない劇薬だ。組織の効率を何より優先するアイクなら、そんなリスクは犯さないはずだった。

他にいくらでも、穏便に彼らを追い詰め、黙らせる「最適解」はあったはずなのに。

アイクは、ただ「ウーヴェの憂い」を根こそぎ断つためだけに、盤面の均衡を崩す暴挙に出たのだ。


「……あ」


ウーヴェは気づいてしまった。

駒になりきれず、家族という不純物を抱えて喘ぐ自分を、アイクはアイクなりに「大切に」思っていたのだ。

だからこそ、絶望した。

アイクがこれほどまでに自分を「買っていた」ことを、今の今まで信じきれなかった自分に。

主を信じられず、勝手に「冷酷な装置」だと決めつけ、裏切りの泥に浸かっていた己の卑しさに。

アイクが与えたのは、救済ではない。

ウーヴェにとってはアイクを信じきれなかったという、残酷なまでの純粋な告発だった。


「……おやすみ、ウーヴェ。僕を裏切るなら、次は最後まで完璧にやってよね」


パチン、と光を消す音。

深い闇の中、ウーヴェは扉の前で崩れ落ちた。

震える手で名簿を握りしめる。

アイクは「子供」なのだ。

自分に向けられた愛を、どう表現すればいいか分からず、ただ相手の周囲を焼き払って「これでいいだろう」と笑う、不器用で壊れた子供。


(……殺してくれれば、よかったのに)


アイクが理不尽な悪魔であれば、どれほど楽だったか。

完璧に見透かされ、自分にだけ向けられた慈悲という名の重荷を背負わされ、ウーヴェは声も出さずに泣いた。

裏切りすらも計算の内側に抱きしめる主の孤独と、その深すぎる愛に、彼は今、これ以上ないほどに打ちのめされていた。

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