15
視界は厚手の黒布に覆われ、耳に届くのは、自分を左右から抱える者たちの鎧が擦れる、不快な金属音だけだった。
サキの心臓は、壊れた時計のように不規則な鼓動を刻んでいる。
(死ぬんだ……。私、ここで殺されるんだ……)
冷たい湿気が肌を刺し、石壁から滲むカビと古びた鉄の匂いが鼻を突く。 どこまでも続くかのような石造りの廊下を叩く足音が、やけに重く響く。どれほど歩かされただろうか。やがて、鈍く唸るような軋み音と共に、巨大な石の扉が、重々しい悲鳴を上げて開かれた。
「……っ」
左右から抱えられていた拘束が解かれ、サキはその場にへたり込む。冷気が一気に襲い、薄い衣類など意味をなさなかった。
広い。目隠し越しでも、そこが異様に広く、そして「底冷えのする地下室」であることが、むしろ皮膚の感覚で先に伝わってきた。 静寂が重く、わずかな音も吸い込まれるような空虚な広がり。
「……さて。異世界の救世主、あるいは無知な詐欺師。君をどう定義しようか」
頭上から降ってきたのは、透き通るような少年の声だった。
サキの肩が、びくりと跳ねる。
その声、その響き。あまりにも聞き馴染みのある、けれど、丘の上で優しく響いていたあの声が、この冷たい空間で反響し、何百倍も冷たく、鋭く、まるで感情という不純物が全て濾過されたような響き。
「君の広めた『殺菌』という概念。おかげで、医療ギルドに投資していた我々の上がりはガタガタだ。おまけにあの複式簿記……。あんなものを広められたら、裏金の帳尻が合わせにくくて仕方ない。……まったく、サキお姉さんは『効率的』じゃないね。そんなこと、東大の頭のいい人たちは教えてくれなかった?」
サキの呼吸が止まる。
「東大」――この世界に存在するはずのない、自分だけが彼に教えた、あの夜の温かい記憶にまつわる単語。
「あ、なた……なんで、その言葉を……どこで……ミミちゃん?」
「……ふふっ」
コツ、コツ、と床に響く、軽やかすぎる足音が近づいてくる。
サキの目の前で足音が止まると、乱暴に目隠しが引き剥がされた。松明の不気味な揺らめきが、一瞬視界を焼き付いた。
「せーかい」
眩しさに目を細めたサキの視界に、逆光を背負って立つ小さな影が映る。
そこにいたのは、自分を心配してくれた可愛い「ミミちゃん」そのものだった。
アイクは無邪気で、残酷なほど美しい笑みを浮かべてサキを覗き込む。しかし、その背景にあるのは、血生臭い匂いが残る暗い石壁と、無表情な武装集団だった。
(……えっ?)
「ミミ……ちゃん……?」
「帝都へようこそ、サキお姉さん。……ここが、夢見た異世界の『帝都』だよ」
アイクは、サキが絶望し、裏切りに泣き叫ぶ瞬間を「観測」しようと目を細めた。彼にとって、これは最高に洗練された恐怖の演出だった。これで、自分の心の中を黒くかき乱す、この異質な存在の心が、ようやく「理解可能」な恐怖で歪むはずだった。
(……ミミちゃん? でも、あんなに優しかった子が、こんな……)
サキは震える視線で、アイクを観察した。
彼を取り囲む恐ろしい大人たち。冷たい地下牢。芝居がかった演出。
(……あれ?)
もしも本当に、私を殺すつもりなら。
こんな手の込んだ「お芝居」なんて必要ない。
それに、あの服。生地が硬そうで、動きにくそう。
ずっとこっちを見てるけど、一度も瞬きしてない。
(この子……私の反応を、試してる?)
サキの中で、何かがカチリと音を立てて嵌まった。
(……ああ、そうか)
毒親に「完璧でありなさい」と言われて。
誰にも甘えられなくて。
だから、こんな暗い場所で、悪い言葉を使って、「見て見て!」って拗ねてるんだ。
ーーかつての前世の友人のように。
恐怖が、一瞬で憐憫に変わった。
「ミミちゃん……」
「……何? 命乞いなら、もう少し面白い論理を提示してよ」
アイクがひどくつまらなそうに言う。
だが、サキの瞳には、授業参観で問題行動を起こした弟を見つめるような、深い慈愛と、怒りにも似た切実な哀れみが満ちていた。
「ミミちゃん……あんた、こんなに立派にグレちゃって……! 反抗期ね!お姉さん、悲しいわ!」
「………………は?」
アイクの完璧な仮面が、一瞬だけ微かに、しかし確実にピキリと固まった。その隙に、まるで計算の裂け目から零れたかのような、純粋な困惑の色が走る。
背後でヴェロニカが吹き出し、次の瞬間には咳払いをして、何事もなかったかのように顔をあげた。ゲルフが呆然と口を開けている。
「ちょっ、サキお姉さん、何を――」
「いいよ、もう無理しなくて! こんな中二病みたいな、トゲトゲした地下室に閉じこもって、悪い言葉を使って……! 独りでこんなにたくさんの、癖の強い大人たちを押し付けられて、辛かったよね!?」
「待って、違う。これは僕が――」
「こんなとこ、子供が喜ぶわけないでしょ!?カビ臭いし、暗いし…… 全部、周りの大人が悪いのよ! 特にあの毒親が!!」
サキは、胸の前で拘束されているはずの腕を火事場の馬鹿力で引きちぎらんばかりの勢いでアイクの両手を握り返した。
その手は、商人の娘として働いた小さな傷や硬いところでごつごつしていたが、包み込む感触そのものは、圧倒的で盲目的な温かさに満ちていた。
「ひ……」
「ミミちゃん。あんたのその歪んだ根性、お姉さんが今から叩き直してあげるから!! 覚悟しなさい!!」
「…………」
アイクは生まれて初めて、「計算」が完全に停止するという経験をした。
目の前のサキが何を言っているのか、論理が一つも繋がらない。最適解を導き出すための前提が、すべて無効化されている。
だが、手を握るサキの体温はあまりに熱く、真っ直ぐで、それは彼が知るどんな「演技」や「同情」よりも、はるかに強力な、理解不能な「力」だった。
アイクは初めて「困惑」という情動に支配され、逃げるように視線を逸らした。
冷徹な観測者としてのアイクは、この瞬間、お人好しの塊であり、異世界の「常識」という名の暴走列車であるサキの勢いに、盤面ごと吹き飛ばされて完敗したのだ。
重い沈黙が、地下室を支配した。
誰もが、この異常事態をどう処理すればいいかわからなかった。
その沈黙を破ったのは、最初は押し殺したような「フゥ」という漏れ声だった。
……ぶっ…
「ぶは!! あははははっっっ! そ、総っ、あははっ、帥。っあは!」
耐えきれなかったように爆笑をして転げまわったのは、控えていたウーヴェだった。
「そ、総帥。ああっははっ、あはは! が、反っ……て!反抗期って!! あはは!!」
とんでもなくツボり、床を叩いて笑い転げるウーヴェに、アイクの冷たい一言が突き刺さる。
「……それ以上笑ったら、減給」
「ええええ、ッッはふはっ、殺生な……!」
息も絶え絶えに笑い、涙目になるウーヴェに、アイクは無慈悲に追い打ちをかけた。
「……さらに減給」
笑い声とも、叫び声ともつかないウーヴェの悲鳴が、重厚な地下室の空気を虚しく揺らした。




