14
焦げ臭い匂いが鼻腔を突き刺した。サキは跳ね起き、寝ぼけ眼を擦りながら、部屋を飛びだす。廊下に漂うのは薪を焼く匂いとは決定的に違う、何か、不吉なーー肉と布が焦げるような、ねっとりとした臭気。嫌な予感がした。
度々送られてきていた警告状。父は念のため家やお店に傭兵を雇った。
だから安心していた。
(まさか……!)
部屋を飛び出したサキの足が、廊下で凍りついた。
頼みの綱だった屈強な傭兵たちが、廊下の隅で糸の切れた人形のように崩れ落ちていたからだ。血溜まりの中ただ静かに、眠るように倒れている。
(嘘……みんな、やられたの……?)
カンッ、と鋭い金属音が静寂を切り裂く。視界の端、家の一部が赤黒い炎に舐め取られていた。爆ぜる火の粉が夜の闇を舞う中、父の部屋へ向かおうとしたサキの前に、闇に溶けるような、黒装束の影が立ちはだかる。
月光を跳ね返す冷たい白刃。それがサキの視界を埋め尽くした最後の光景だった。
後頭部に衝撃が走り、世界が急速に闇へと沈んでいった。
サキの意識が、湿り気を帯びた冷気の中で浮上した。
両手首を縛る縄が食い込み、猿ぐつわが頬を圧迫している。
薄暗い石造りの部屋。壁の松明がパチパチと音を立てるたび、不気味な影が躍った。
(怖い……。誰か、助けて……)
キィィ……と、重い鉄の扉が悲鳴を上げて開く。
見知らぬ男が二人、そして、カツカツと乾いた靴音を響かせて一人の女が入ってきた。
「お、起きてるな。枢機卿、こちらの少女です」
「はいよっと。君が噂の『救世主』?」
女——盤枢卿ヴェロニカが、品定めするようにサキを覗き込んだ。
「ああ、喋れないんだっけ。それ、外して」
猿ぐつわが解かれた瞬間、サキは震える声で絞り出した。
「……なんで、こんな……ひどいことするの……」
「ありゃ? 君、うちの財布を空っぽにした自覚ないわけ? 君の複式簿記ってやつのおかげで、街の商人連中がツケを膨らませてたり、在庫を誤魔化したりできなくなった。うちの取り分が3割も吹っ飛んだんだよ?」
ヴェロニカは大袈裟に肩をすくめて笑う。サキは血の気が引くのを感じた。
自分が良かれと思って広めた技術が、この恐ろしい「夜の住人」たちの利益を削っていたのだ。
「知らない……しら、なかった……。私は、ただ……」
「別に君が知ってようが知ってまいが、もたらした結果は変わらないのよ」
ヴェロニカの瞳が、冷徹な観察者のそれに変わる。彼女はサキの微かな震え、瞳孔の開き、声の揺らぎを、一枚の図面を読み取るように精査していく。
サキの心拍数に乱れはない。
ヴェロニカはサキの行為をただのおめでたい善意だと判断した。
スパイならもっとマシな言い訳をするだろう。
サキの背後に銀の歯車や他国の影がない。
だが、まだ確証がない。
「うーん、どこかと繋がってるわけでもなさそうだよねぇ。……ねぇ、君。どうやってあんな殺菌なんて概念を編み出したの? あれ、帝都大学が何年か前に見つけたばかりの最新情報だよ? いまだに議論に上がるものだねえ。それにあの帳簿も,ごまかしが聞かなくって困る」
「どう、って……思い、ついたから。ただ、それだけ……」
「ふぅ〜ん? 思いつき、ね?困るんだよねえー。商人連中から適当に売り上げをぼったくれなくなったんだ」
サキの必死の答えに、ヴェロニカは面白そうに口角を上げた。ただの商人の娘が、数百年分の学問の進歩を「思いつき」で飛び越えるはずがない。
天才か、異質か。サキの処遇にしばし頭を回す。
ーーきっと、総帥のいいおもちゃになるに違いない。
「うーーん、勝手に処分すると総帥に怒られそーだわ。……よし、君を『総帥』への献上物にしよう!」
にっこりとヴェロニカは笑う。ただただサキは震えていた。
サキの意識が、湿り気を帯びた冷気の中で再び浮上した。
帝都へ向かう護送馬車の、狭く暗い檻の中。揺れる車輪の音が、彼女の不安を増幅させる。
「おい、水だ。飲め」
無愛想に差し出された、濁った水の入ったコップ。サキはそれを受け取ると、怯えながらも、思わず口を突いて出た。
「……あの、これ、煮沸してないから……飲んだらお腹壊しちゃいますよ。あなたたちも、気をつけたほうが……」
見張りの男が鼻で笑う。だが、その様子を馬車の外から見ていた盤枢卿ヴェロニカは、確信を持って呟いた。
「やっぱり『白』ね」
スパイなら、死の恐怖を前にして敵の腹具合を心配するようなマヌケな真似はしない。この街の救世主とやらは本当に善意を垂れ流しているだけなのだ。
ヴェロニカは手元の通信機を操作して、総帥に繋げた。
※ ※ ※
「はあ? また? またオークションが台無しになったの?」
アイクの声が、冷え切ったナイフのように執務室に響いた。
報告に訪れた執行司祭は、床に額を擦り付けんばかりに震えている。
「申し訳ございません。信頼ある者だけで運営を……」
「次はないよ」
短い宣告。だが男は躊躇うようにしてアイクを伺う。
「あの、襲撃者が……。襲撃者に軍の勲章が。もしや表に目をつけられてるのではっ」
「黙って。君のその視野の狭さで僕に意見するな」
知っている。全て。
ただの駒の意見不愉快だった。
退出を促された男は、逃げるように部屋を去った。
アイクは机に肘をつき、指先でこめかみを叩く。ここ数日、組織のシノギであるオークションが第三者の勢力によって立て続けに潰されている。
(めんどくさいな。……まぁいいか。まだ『彼ら』は利用価値がある)
アイクは興味を失ったように、山積みの書類へと視線を戻した。
ーーああ、そういえばそろそろルークを進めないといけない
アイクは机の上に置いてあった目隠しをとり、そのまま巻く。
「ウーヴェ、ちょっと出かけてくるよ」
「えー、またですか? 服汚さないでくださいよ。帰ってきた時に部屋の中の匂いが最悪になるのはごめんっすからね!」
呆れたウーヴェの声を聞き流し、アイクはドアを出た。
裏路地をぶらぶらと歩いていたアイクを、唐突な殺意が襲った。
難なくそれをいなしたアイクは、嘲笑うような足取りで逃走を開始する。
(……裏を引いたのは三組。ゲルフの『狂犬』どもか)
背後に迫る複数の足音。アイクは振り返ることもなく、路地の壁に跳ね返る音の「反響」だけで、追手の数と歩幅を正確にトレースしていた。
「逃がすな! いけ!」
彼は逃げているのではない。自ら選んだ実験場へと、獲物を誘い込んでいるのだ。
わざとらしく足をもつれさせ、アイクは一軒の廃聖堂へと滑り込んだ。そこは一週間前、アイクが埃の厚みから空気の流れまで調査済みの場所。愚かな駒たちの、専用の処刑場だ。
聖壇の階段に腰掛け、アイクは目隠しをしたまま手元の「砂時計」を眺めていた。
そこへ、武力部隊を率いる枢機卿ゲルフが、抜身の刃を構えた精鋭たちと共に踏み込んでくる。
「小賢しいガキッ……お前のような小僧が総帥なぞ、この組織の沽卿に関わるわ!」
「おやおや、ゲルフ。君のその『力』、最近あんまり役に立ってないみたいだね?」
アイクは砂時計を横に倒した。その仕草一つで、ゲルフという存在が「計測完了」されたことを告げる。
「この一ヶ月、君の部隊が関わったオークション襲撃は三件とも失敗。理由は簡単だ。君たちの動きが、全部『見えて』いたからだよ。
「見える? ふん、我らの中に内通者がいるとでも言いたいのか!」
「いいや。あるのは『法則』だけだ。君の暴力任せのその単純な動きなんて軍人にとってはお遊戯みたいなものだろう」
アイクが静かに立ち上がった、その瞬間。
ゲルフの側近の一人が、何もない場所で不自然に足を滑らせた。よろめいた男が仲間の肩を掴み、その弾みで抜いたばかりの短剣が、隣の男の脇腹を浅く裂く。
「おい!? 何をしてやがる!」
「す、すまねえ! 急に膝の力が……」
「君たちは、自分が自由に行動していると思っているんだろう?」
アイクが一歩、歩を進める。
今度は二人の男が同時に激しく咳き込んだ。舞い上がった埃を吸い込んだわけでもない。ただ、アイクが踏み出したことで変化した「気流」が、彼らの呼吸のリズムを数ミリだけ狂わせた結果だ。
「緊張すると右肩が上がる者。決断の直前、無意識に奥歯を噛み締める者……。ゲルフ、君は今、左の肺に空気が足りていないね?」
ゲルフの顔が強張った。指摘されるまで気づかなかった。いや、指摘された瞬間に、自分の呼吸がアイクの言葉通りに不規則になったのを自覚してしまった。
「この廃聖堂の床。一週間かけて、僕が少しずつ石材の摩擦を調整しておいた。君たちの『癖』と、この空間の『傾斜』を組み合わせれば――」
アイクがもう一歩近づく。
今度は男たちが持つロープが台座に絡まり、松明が揺れて影を歪ませた。その影の動きに惑わされた者が、また一人バランスを崩す。
「次に誰が、どこで、どう転ぶか。誰の武器が、どちらの方向に流れるか。……全部、計算の範囲内だよ」
アイクはまるで、不出来な生徒の論文を添削するかのような、残酷なまでに丁寧な口調で告げた。
「この時間、地下から上がる冷気がちょうど君たちの喉を刺激する。……ほら、また一人が首を傾げた」
不気味な静寂が聖堂を支配する。もはや誰も斬りかかろうとしない。
一歩動くこと自体が、アイクの「計算」という名の不可視の糸に絡め取られることだと、武人としての本能が理解してしまったからだ。
「ゲルフ。君の『力』って、結局は自分の肉体を思い通りに操ることだよね? でもさ……」
アイクがゲルフの至近距離にまで距離を詰めた。
「もし君の筋肉の収縮すら、僕の指先一つで決定されてしまうとしたら? それはもう、君の力じゃないよね」
ゲルフは、突き出そうとした腕に、這い回るような微かな痺れを感じた。恐怖ではない。自分の神経系が、アイクの声や空気の振動に「調律」され、書き換えられていくような生理的な違和感。
「観測できるものは、理解できる。理解できるものは――調整できるんだよ」
アイクが、ゲルフの胸元に指を立てた。
反射的に、ゲルフはその指を払いのけようとした。だが。
「――ッ!?」
振り上げたはずの腕は、不自然な角度で自分自身の胸甲を叩いた。ガィィィン!と重い金属音が響き、ゲルフは自分の肉体が、自分を裏切った事実に絶望する。
「なっ……!ば、け……も……の……」
その時だった。
絶望の極致で、一人の部下が理性の糸を切らした。計算を超えた、獣のような突進。
「――ッ!」
アイクの頬を、刃がかすめた。
赤い一筋が目隠しの下を流れ、石床に点り。
静寂。ゲルフさえもが、その「計算外」の事態に息を呑んだ。
「……へえ」
アイクは指先で血を拭うと、それを舌でゆっくりと味わった。
そして、笑った。
目隠しの向こう側、飢えた獣のような好奇心の光が、自分を傷つけた男を射抜く。
「あはっ面白い。……ねえ、もう一回やってみてよ」
その声に、襲撃した男は悲鳴を上げて後ずさり、武器を投げ捨てた。
アイクは少し残念そうに肩をすくめ、ようやく、床に這いつくばるゲルフたちを見下ろした。
「さて、ゲルフ。選択肢をあげる。このまま、僕の掌の上で一生お人形でいるか。……それとも、『力』なんかよりずっと確実な『結果』を僕に差し出すか。……好きな方を選びなよ」
アイクの口調は、おもちゃの壊し方を考えている子供のように、無邪気で、透き通っていた。
ー
唐突にアイクの懐で魔導通信機が震える。
声のみをリアルタイムで伝達できるアイクが開発したものだった。
「やっほー総帥。ゲルフにやつみっともなく床に這いつくばってる?……あ、そうそう例の『街の救世主』捕えたんだよねぇー。総帥へのお土産。もうすぐ着くよ」
盤枢卿ヴェロニカの声がする。
(あぁ、サキちゃんやっぱり捕まっちゃったんだ)
アイクは先程の愚かな駒を眺めていた冷徹な声色を一つも変えることなく淡々と応じた。
「……あぁ、丁寧に運んできてよ。それは僕の、世界にただ一つの特別なおもちゃなんだから」
足元に屈服し。這いつくばるゲルフたちは、その言葉に込められた底知れない狂気を感じ取った。




