13
毎日とはいかないが、アイクは頻繁にサキとの夜話を楽しんだ。
「そういえば街のどこに住んでるの? 今度お邪魔してもいいかなあ?」
サキがにっこり笑って言う。アイクは困った顔をして眉を下げた。
「……おばあさまが許してくださらないよ。おばあさまは僕が外に出ることにいい顔しなくて。本当は夜抜け出すのもダメなんだから」
「あ。……ごめんね。そっか。だから街でミミちゃんを見かけないんだ」
商業都市であったこの街では貴族はほとんどいない。いても男爵程度。ここは商人の街で、古くは帝国とトゥーリ国を結ぶ交易の拠点だった。
「ねえ。サキお姉さんって、トゥーリと帝国の両方の血を引いてる?」
不意を突かれたように、サキが瞬きをした。
「え?」
「だって、だって、サキお姉さんの歩き方、すごく綺麗なんだもん。ゆったりしてる。あと、胸元で組むジェスチャーするのも、帝国の作法じゃない。……こっちに来たのも、ここ2、3年くらいの話じゃない?」
その瞬間、サキは限界まで目を見開いた。
(――あ)
アイクの脳裏に、かつての記憶がフラッシュバックする。
引き攣った顔。
心臓が嫌な音を立てる。
けれど。
(……まあ、いいか)
今のアイクの胸に広がったのは、恐怖ではなく、乾いた諦めだった。
どうせ自分は異端だ。ここで怖がられようが、気味悪がられようが、それが自分の正体なのだから仕方がない。
アイクは心の中の動揺を、冷めた息と一緒に吐き出した。
「……お姉さんたちのお店の評判、最近急に良くなったってみんな言ってたから。だから、最近来たのかなって」
間髪入れず、アイクはにっこりと無邪気な笑みを張り付け、当意即妙な嘘でコーティングする。
「あ、ああ、そうなのね! 驚いちゃった。ミミちゃん鋭いんだもん」
サキの見開いた目が納得の色になり、いつもの能天気な顔になる。アイクの言葉の裏にある「異常な観察眼」になど気づきもせず、彼女はあっさりと笑った。
「ハーフ……ではないんだけどね。でも、トゥーリ皇国から来たのは正解よ」
「トゥーリ皇国ってやっぱりニホンと似てるの?」
「うーん。どちらかといえば中国かも。そもそも言語が日本語よりも中国語っぽいからね」
チュウゴク。アイクは目を細めた。
「へええ。僕、トゥーリ皇国行ったことなかったからなぁ。よかったらトゥーリ皇国の話も聞かせてよ」
「そーね。私は大学で中国語取ってたおかげでなんとかなったんだけど、父さんは未だに喋れないの。あんまり中国の文化は知らないんだけどね、少なくとも日本ではなかったかなあ」
「懐かしいものなかったの?」
「お米あったよ! まさか異世界でお米に最初から出会えると思ってなかった!」
わあああすごい、と大袈裟にアイクは喜びつつも頭を回す。
(ニホンはトゥーリに近い文化圏の国……)
「ミミちゃんははどこから来たの?」
唐突な問いに、アイクは一瞬言葉を選んだ。
「帝都から」
そうアイクが答えるとサキは驚いたように口に手を当てていった。
「帝都!!都会じゃん!!いいなぁ!」
その純粋な憧憬に、アイクはフッと小さく笑みをこぼした。コテンと顔を傾けて聞く。
「そんなに羨むこと?」
「当たり前!いいなぁ私もこんな田舎じゃなくてもっと都会行きたい!!」
「そんないいところじゃないよ」
ポツリとそう漏らすアイクにサキはなんで?って不思議そうな顔をする。そんなサキを見てアイクはクスリと笑った。
「あのね、ここは15年前まで独立した商業都市だったから、外の人間にも偏見が少ないけど。普通、帝国では黒髪は差別される。戸籍を持っていても職につけない可能性が高いよ?」
「え。差別!?いつの時代の話よ、もーーー」
サキの反応は、頭になかったどころか、まさかそんなことが、と心底驚いているようだった。その世間知らずな反応に、アイクはまた面白さを感じる。
「ニホンではそうじゃないかもだけど、僕たちが生きてるのは今なんだから」
クスクス笑いながらアイクは言った。サキはいつだってアイクの予想を裏切る反応をしてくれる。その意外性が、彼にとっては退屈しのぎのゲームだった。
「戸籍の重要性って知ってる?」
「え、えぇ。まぁ重要なのはわかるわよ」
あからさまに目を逸らしながら肯定するサキ。アイクはサキにあんまり知られてないけど、と前置きした上で、説明した。
「……サキお姉さん、ニホンではどうだった?役所に行けば誰でも名前を登録できて、証明書がもらえる……そんな感じ?」
「え? ええ、まあ。生まれたら親が届けて、それで終わりよ。それが普通じゃないの?」
サキの「普通」という言葉に、アイクは喉の奥で冷たい笑いを漏らした。
「ここは違うよ。戸籍は『人間である証明』。でもそれを管理してるのは国じゃなくて、その土地の地主なんだ」
「地主が? なんで?」
「税を絞り取るため。そして、労働力が逃げないように縛るためだよ。」
アイクはまるで教師のような声色で話す。指を一本立てた。
「農村の過酷な生活から逃げ出したくて、地主に黙って街へ来る人たちがいる。」
そうしてもう片方の手で1本指を立てる。
「で、こっちは地主。地主の役割はなんだと思う?」
「えっと、税を納めさせる?」
アイクは満足げに頷く。
「せーかい!もっと汚い理由があるけど、仕事で税を納めさせないといけない地主が『はい、あなたは自由ですよ』なんて証明書を発行すると思う? しないよね。」
アイクは、指をそのまま交差させ、バツを作った。サキは真面目に話を聞いている。
「発行されなければ、その人はこの世界に存在しないのと同じ。身分を証明できない人間を雇う店なんてない。……結果、彼らはどうなると思う?」
「……スラムに、行くしかないってこと?」
サキの声から明るさが消える。アイクは淡々と、突き放すように続けた。
「そう。影として生きるしかない。誰も助けないし、真っ当な生活も望めない。不幸を嘆いて、誰かが救ってくれるのを待っていても、お腹は膨らまないんだよ。……現実は、お姉さんが思っているよりずっと、救いがない」
アイクの言葉は、単なる知識の披露ではなかった。かつて自分もその「影」の一部であったかのような、実感を伴う冷ややかな重みが、夜の空気をじりじりと浸食していく。
(……この人は、こういう『澱み』を知らずに生きてきたんだな)
演技で隠しきれない鋭い視線が、サキの当惑した顔を射抜く。アイクはそんな彼女の反応を、どこか残酷な愉悦と共に観察していた。
「そっか……」
サキは少しの間、言葉を失ったように黙り込んだ。
やがて、震える手でアイクの頭を撫でる。
「え……っ、な、何?」
「ミミちゃん、すごい苦労したんだね。そんなことまで考えなきゃいけなかったなんて。頑張ったんだね」
暖かい手のひらの感触。アイクの心に、懐かしくて切ない感情が波紋のように広がる。動揺で視界が揺れたが、アイクはすぐにその感情をを振り切った。
ーーただの雑音。
サキは少しもめげずに地に足がついたような声色で言った。
「そうだよね、私、自分の環境に感謝しなきゃ。なんで私だけ異世界転生して孤独なんだって思ってたけど、それどころじゃないもんね」
そしてあっけらかんと笑った。
その無防備さに、アイクは深く、吐き出すような溜息をついた。
サキの首筋に冷たい刃を突き立てるよりも、今の彼女の言葉を切り捨てることの方が、アイクには難しく感じられた。
「サキお姉さん。……どうしてあんな危険な情報を広めたの?」
「危険? 意味がわからないわ。ただの知識だよ? 石鹸の作り方とか、ちょっとした衛生の知識とか」
サキはきょとんとして首を傾げる。アイクはその瞳の奥にある、どこまでも透き通った「善意」を、みる。
「そのままの意味だよ。この世界の体系に、別世界の理を無秩序に持ち込めば、必ずどこかが破綻する。利権が動けば人は死ぬ。いいことばかりじゃないんだ。……自分の身の安全を、少しでも優先したいなら、そんなものは墓まで持っていくべきだった」
諭すような声。それは、本来の彼なら「利用価値のある駒」にだけ向ける、計算された警告であるはずだった。だが、今の言葉には、もっと無意識で、剥き出しの焦燥が混じっている。
(……なんで、お姉さんを心配してるんだ。僕は。これは、ただの……)
喉の奥が、妙に熱い。
アイクの言葉に、サキは少しだけ顔を曇らせた。夜風に揺れる黒髪が、彼女の当惑を象徴しているようだった。
「でも、それで大勢が助かるならいいじゃん。知ってるのに黙ってて、誰かが死ぬのを見るなんて……そんなの、絶対に後味悪いよ」
「……っ」
アイクは言葉を詰まらせ、視線を地面に落とした。
倫理という名の、アイクの住む世界には存在しない真っ直ぐな光。それはあまりに眩しく、そしてあまりに脆い。その光が強ければ強いほど、呼び寄せる「影」はより深く、より残酷なものになることを、アイクは骨の髄まで知っている。
サキは少し躊躇って続けた。
「私……前世で……医者じゃないけど、看護の勉強してたの。人を助ける方法を知ってるのに使わないなんて、できなかった。偽善でもいいから誰かを助けたいって思った」
でもここでは偽善が通用しない。中途半端に知識で人を救えば、その倍の危険を伴ってしまう。
(この人は、自分がどれだけ重い賽を投げたのかも分かっていない……)
アイクの口から漏れたのは、祈りに似た、掠れた忠告だった。
「……気をつけてね。お姉さん。ここには、君が思っているような『良心』で動く人間ばかりじゃないんだから」
暗がりに溶けてしまいそうな小さな声。アイクはそれ以上、サキの顔を見ることができなかった。彼女を救いたいのか、それとも自分の平穏を乱す異分子が消えるのを恐れているのか。
(……もう、お姉さんは手遅れなんだろうなぁ)
アイクの組織だけではない。サキの知識はあくどい商法をしていた人、ざるな簿記を長年悪用していた人、神官、多方面からの敵意を買う。
「……なにか脅されたりとかしてない?」
無意識にアイクがポツリとサキに聞く。
「まぁ……ときどき、変な手紙が届くことはあるけど」
サキは少しだけ顔を曇らせたが、すぐに笑顔を取り繕った。
「でも大丈夫。父さんが心配性だから、色々対策してくれてるし」
そう言ってサキは苦笑する。
サキが言葉の明るさとは裏腹に一抹の不安を抱えていることはわかる。
(あぁ……わかってない)
口にするかアイクは躊躇った。しばし逡巡する。
「……お姉さん」
アイクは言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開いた。
「ここは、ニホンじゃないんだよ。……気をつけて」
「そんなに? まぁ私前世から危機感足りないって親に散々言われてたしなあ。そうだね気をつける。ミミちゃんわざわざ忠告してくれてありがとね」
「別に」
頭をまたサキに撫でられて、なんとも言えない気持ちをアイクは抱えた。




