11
参謀部隊である執行司祭から上がってきた報告書の一枚にアイクは目を留めた。トゥーリ国との国境付近にある街一帯を担当する執行司祭のものだった。
報告書に並ぶ数字が減少していた。
(なにが、あったんだ?)
単純な「収入の減少」ではない。みじかめ料、通行税、利息。
その全ての項目がまるで見えない大きな手によって最適化されたかのように組織の喉元を絶妙に脱れて、民へ流れて行っている。
敵対組織『銀の歯車』による介入かとも考えたがそもそもここまで綺麗に介入できるほど勢力を東に伸ばしていなかったはずだった。
これは暴力による簒奪ではなく知恵による静かな反逆だ。
椅子から立ち上がり、アイクは手慣れた動作で目隠しを巻いた。
アイクの預かり知らぬところで、誰かが盤面を書き換えている。その事実がアイクの乾いた胸を微かに高鳴らせた。
総帥の執務室に固定してあるヴァルプトーアーーアイクが独自に開発した転移術式ーーにそのまま入って行った。膨大な演算を要するこの術を扱えるのは、組織内でアイクだけで、その理論を理解できる者などいなかった。入れ違いにノックの音が響く。
「総帥、しっつれいしまーす……ってまたかよ!仕事放り出して!」
書類を抱えた筆頭従士の嘆きは主人のいない部屋に虚しく消えた。
国境付近の丘には、母、玲凛が嫁いだ記念に桜が植えられいた。今はもう立派な大樹となり、風に枝を揺らしている。定かではない理由でヴァルプトーアをここに固定した。謎の感慨を振り払い、アイクは丘を下る。
目隠しを外し、顔を整える。今は「無害で無邪気な子ども」だ。
かつてこの街はどこか暗い雰囲気漂っていた。一見騒がしくとも裏で搾取する組織の暗い澱みがまとわりついていた。
だが、今は違う。商人の目つきに「怯え」がない。それに傭兵が多数見掛けられた。
(不愉快だ。僕の知らないルールで、世界が作り直されている)
アイクは大通りで立ち止まり、あざといほど純粋な笑みを浮かべて、近くにいた町娘に声をかけた。
「おねーさん!僕、道に迷っちゃって。広場ってどっちに向かったらいいの?」
「あら、えっとねここを真っ直ぐに行ったら大きな樽がたくさん置いてある酒場が見えると思うから、そこを左に曲がったらすぐよ。」
アイクはにっこり笑ってお礼を言う。
「ありがとう!お姉さん。そういえばここの街すっごいキラキラしてるんだね!僕びっくりしちゃった。前に来た時となんか雰囲気違ったから。」
さりげなくさぐりを入れる。お姉さんは苦笑して言った。
「ああ、坊やは昔の街を知ってるのね。うちの街には救世主がいるの。この街を救ってくれた恩人!」
「わああすごい!救世主!」
アイクはもっと探りを入れたかったが連れの人がソワソワとしていた。これ以上は引いた方が良さそうだ。
「あ、僕時間ないからもう行かなきゃ!お姉さんありがとう!またね!」
大きく手を振り、広場の方へアイクはかけて行った。
広間に着くと、何にか人が見られた。ちょうどお昼の時刻を少しすぎた頃で、休憩している人が多い。この街はトゥーリ国に面し、15年ほど前まではどこの国にも属さない商業都市として栄えていた。だからだろうか。ちらほらとアイクのような黒髪が見られた。
ちょうど裕福そうな商人が立っていた。アイクはその人に情報を探りにいくことにした。あざといほど純粋な笑みを浮かべて声をかける
「おや、坊や。一人でどうしたんだい?」
「あのね、おばあさまにここの街は治安が良くなったから安心しておいでって言われて!おじさんたちが頑張ってるからなんだね!」
キラキラした瞳で見上げれば、男は鼻を高くして格好を崩した。
「ははは、嬉しいことを言ってくれる。だがね、坊や、私よりは私の娘のおかげなんだ」
「ええっ、すっごい!おじさんの娘さん、魔法使いなの?」
ははは、魔法よりすごいかもしれない。あの子が広めた精密な帳簿のおかげで、余計な税を払わなくて済むようになったんだ。あの子は街の宝だよ」
アイクの口角が、ピクリと不自然に跳ね上がった。
自分の知略部隊が何年もかけて作り上げた「搾取のシステム」を、たった一人の人間が『計算術』などという知恵一つで無効化した。
(会ってみたいな。僕の盤面を汚した、その不届きな天才に)
「おじさんのお店気になってきちゃった!おばあさまが来るまでもう少し時間があるから行ってみてもいい?」
キラキラと目を輝かせて言う。そんなアイクに悪い気がしなかった商人は喜んで連れて行ってくれた。
連れて行かれた店内で、十六歳ほどの少女が帳簿を閉じた。
彼女はアイクを一瞥し、営業用の明るい笑みを浮かべる。
「いらっしゃ……あ、父さんお帰り。お客さん?」
「ああ、街に越してきたばかりらしくてな」
商人が娘にアイクを紹介する。
「でもうち、薬品や食材のセットばかりだよ? 子供には退屈かも」
少女が指差した棚には、保存食や包帯が「知識大全」とともに整然と並べられていた。その一角にある「奇妙な表」を、アイクの眼は見逃さない。
「10%還元」――見たこともない概念。
商人はアイクにごゆっくりというとそのまま奥に引っ込んでいった。
(……なんだ、これは。単なる値引きじゃない。回転率と在庫リスクを計算し尽くした、完璧な『仕組み』だ)
「ねえお姉さん、さっきの計算……。100の売上で、10戻すんでしょ? お店のお金、減っちゃわない?」
「ふふ、大丈夫。その分、たくさんのお客さんが来てくれるし、他の商品も一緒に買ってくれるから。……トータルでプラスになればいいのよ」
普通、商人は経験と勘で商売をする。だが彼女の言葉には、まるで既に完成された「別の世界の体系」をなぞっているような、奇妙な説得力があった。
「へぇー……。あ、お姉さん、そこの棚にある『知識大全』ってやつ、ちょっと読んでもいい?」
「ええ、いいわよ。子供には難しいかもしれないけど」
彼女が手渡した冊子。アイクはそれをパラパラと捲り、数秒で内容を理解した。
そこには、怪我の処置、食料の保存、果ては衛生管理の重要性までが整然と記されていた。
(……魔素という言葉が、一度も出てこない。)
まだ庶民には病は『魔素の乱れ』や『神の不興』だと信じられている。なぜ彼女は『目に見えない雑菌』を前提にした対処法を知っているのか。ただの一介の商人の娘が、帝都大学やリーンハルトがようやく辿り着いた最新の概念を。
「ねー!お姉さん。この熱湯煮沸って魔素を消すってこと?」
無邪気な顔でアイクは尋ねた。少女はにっこりと笑って答える。
「えっとねそれは細菌……えっと小さくって目に見えないものがあるんだけど、そいつらのせいで私たちの体の調子がおかしくなっちゃうの。でもそいつらは熱湯で消えちゃうのよ」
「ええ!!お姉さんすごい!どうやってちっちゃい目に見えないものをわかったの?」
少女は目を逸らしてええっとと口篭らせて詰まる。
「ねえねえなんでー?」
「なんでだろうねー?なんか夢で見た気がするんだー」
「へええ!!お姉さんすごい!」
アイクは目を輝かせてみせた。
ーー本にして売ってるぐらいだ。理論を提示せず、誤魔化すのは不自然。
アイクが幼いから教えていない可能性も少女の態度で違うとわかる。
まるで答えのみを知っているようだ。それこそ夢で見たかのように。
多くの学者は大抵魔素ありきで理論を立てる。それほど外せない概念。
農民でさえ、作物の不作を「魔素の流れが悪い」と口にする。この概念は文化の底に浸透している。
だが、彼女の理論は魔素が存在しない物理法則の下で完璧に完結していた。
少女は商業知識も医学知識もどちらもずば抜けて精通している。
(商業の天才で医学の天才? この世界の学問体系から完全に独立した形で?)
アイクは、自身の内側に湧き上がるどす黒い興味を抑えきれなくなった。
そして、確信を持つ。
(ありえない結論。……他の可能性は?古代文明の遺物……。いや文字がまだ解読されていない)
専門的な学があって初めて解読できる文字を基礎知識なしに解読など、それこそ不可能だ。
チラリと少女を伺う。
彼女は木枠の中に数珠を通した道具を使って計算しているようだった。
彼女に見えない角度で、手元の紙片にペンでサラサラと文字を書く。そしてそれを小さく折りたたんだ。
「ねえ、お姉さん!知らないことばかりで楽しかった!そろそろおばあさまが来るから僕もう帰るね。」
そう言って少女に近づき、見上げた。
「はーい。またのご来店をお待ちしてまーす。ぜひ保護者の方と来てね!」
「あ、そうそうお姉さん。耳をちょっと貸して。」
そう言ってアイクは少女を手招きした。少女は身を屈める。
「今夜、いいことあるかもよ」
えっ、と困惑する少女にアイクはにっこりと笑う。
そのままアイクは店を出た。
夜。月が高く上がった頃。
お店で働いていた少女は、あたりをキョロキョロ見渡しながら桜の大樹がある丘へ来た。その瞳には恐怖を上回るほどの切実な期待が張り付いている。
「誰か……いないの?」
「おねーさん。ここいるよ」
アイクは木の枝に座っていた。
上から声をかけて下に飛び降りた。
「あれ?あなたお昼の……。」
少女はそれでいて恐る恐るアイクに声をかける。
アイクはお店を出る際に少女の懐に紙を忍ばせた。ただ一言。
『あなたと同じです。今夜、桜の丘で』
「うん。僕も同じなんだ」
そうアイクがいうと、少女の瞳はより一層大きく揺れた。
「じゃあ、あなたも……日本から?」
ニホン。聞いたことない響きだった。おそらく国名。だが帝国の地理書にも、東洋の記録にも、歴史上のどの国にもそんな名前はない。
しかし、ニホンという単語がそれが彼女の正解なのだろう。
アイクは郷愁に満ちた顔で微笑んだ。
「あぁ、懐かしいな。そう、ニホンだよ」
「あっ……ああ……!」
少女が口元を抑え、その場に泣き崩れる。その涙は本物の故郷への未練だ。か会える場所がある。失ったものを嘆ける中身がある。少女の警戒心などとうに消え失せていた。異世界という孤独な海で、たった一人、同郷の相手と会えた歓喜。
アイクは彼女の震える手に肩を置きながら冷徹に観察していた。
日本という世界の記憶を持ち、その価値観で生きている。
明確に異なる理を持った異世界からの来訪者。
(……羨ましいな)
ふと、本音が漏れる。
空っぽのアイクとは違う。
「お姉さん、名前は?」
「……サキ。向こうでは、早希って書いたの」
「僕はフィン。……よろしくね、サキお姉さん」
アイクはニッコリと笑った。
(面白いおもちゃ手に入っちゃった)
久しくなかった渇望が胸に渦巻く。
その笑顔の裏で、この人をどう利用し、どう使い潰すかを計算しながら。
同時に、彼女が持つ「本物の記憶」へ何かドロリとものが腹の底に溜まっていくのを感じた。
数刻ほど前
一度執務室に戻ったアイクは、ウーヴェに「仕事しろ」と叱られながらペンを動かしていた。ウーヴェはアイクが枢機卿時代からの部下だが、アイクはウーヴェのことを気に入っている。
裏では悪魔だとか恐れているくせに、こうやって接することのできる肝の太さが。
「総帥! 遊びに行ってたんじゃないでしょうね」
「なに?僕がそんなことするわけないじゃん。ちゃんとお仕事ですーー」
アイクはウーヴェに言い返す。ウーヴェの手元で髪飾りをいじっている音がした。
その音を聞きアイクがウーヴェに言った。
「あの子は元気?」
一瞬だけウーヴェが固まる。何事もなかったかにように手元の髪飾りを懐に戻す。
ウーヴェは微笑んで言った。
「総帥の計らいには本当に感謝しているんです。お礼をいっても足りないぐらいですよ。」
「そう」
アイクは短く答えた。
ペンを走らせながら、アイクは確信を反芻する。
彼女の知識には、歴史的な積み上げがない。つまりこの世界で育ったものではない。
彼女の知識には、魔素の概念がない。
もし彼女がこの世界で生まれた天才なら、煮沸消毒の効果をこう説明するはずだ。
『熱によって、水に含まれる魔素を清浄化する』と。
どんなに学がない者でも、この世界に産まれれば「魔素」という概念からは逃れられない。呼吸をするように、思考の根底にそれが組み込まれるからだ。
けれど、彼女の理論には「魔素」という変数が欠落していた。
彼女は、魔素を「無いもの」として扱っている。
つまり魔素のない世界で形作られたものだ。
ならば、結論は一つ。
(不可能なものを除いていけば、最後に残ったものが、どれほど信じがたくても真実だ)
「ウーヴェ。今日の仕事は終わり。……あ、そうそう。この三束目の書類……これ、君がやるはずの徴収記録じゃない?」
立ち上がりかけたアイクの手が、山積みの紙の一画をピシャリと叩く。ウーヴェの頬が引き攣り、視線が泳いだ。その直後、彼は無意識に背筋を伸ばし、乱れた呼吸を押し殺すように一度だけ深く息を吸った。
「え、あ、あはは……。いやぁ、総帥なら数秒で終わるかなって、つい」
「……僕をなんだと思ってるの? 自分の仕事くらい自分でやりなよ。僕が帰ってきた時終わってなかったら、減給ね」
アイクはウーヴェのそういうところが本当に好きだ。面白い。
タンっとペンを置いて、アイクは不敵に微笑んだ。
「そんな殺生な〜!」
絶叫する部下を置いて、アイクは再びヴァルプトーアであの街へ飛んだ。




