Exordium(エクソルディウム)
Exordium-始まり
皇宮を抜けたその夜
初めに考えたのは帝国より北西に位置するカルシス王国へいくことだった。
そこはヴェルエリン帝国と遜色ないほどの国力を持つ。
(誤算だった。)
アイザークは迷子になっていた。さもありなん。アイザークはここにきたのは初めてである。
頭の中の地図は完璧だったはずだ。だが、実際の路地はもっと複雑に入り組んでいる。
ーー情報と実体験の間に初めて深い溝を感じた。
こんな夜に幼子は悪目立ちをする。雨で多少は視界が悪いとはいえ、アイザークはできるだけ暗めのところだけを通って目立たないようにしていた。だが、皇子にとってそれがなにを意味するのかまるでわかっていなかった。
雨音が掻き消えるほど心臓がうるさかった。スラムの袋小路で、目の前に刃物を持った3人の男。絶えず臭う、汚水と腐卵臭、腐敗臭。
突きつけられた切っ先が、アイザークの喉元わずか数センチで止まっている
降り続く氷雨が、アイザークの黒髪を額に張り付かせる。
「……っ」
今この時にも命がすり減っていくのを感じる。肉体が物理的に失われ、消失する恐怖。
背筋を冷たいものが走る。――直後それが灼熱の奔流に変わった。
視界が急激に鮮明になる。雨粒の一つ一つ、男たちの筋肉の収縮、充血した眼球の動き。
脳が焼き切れるほどの速度で回転を始めた瞬間、アイザークの身体中を駆け巡ったのは、脳髄が痺れるほどの爆発的な快感。
ドクンッ。
心臓が跳ねると同時、アイザークの灰青色の瞳が、瞬く間に鮮烈な蒼へと塗り替わっていく。
濁りのない、凍てつくような澄んだ青。
「ぃひ、……ふふっ」
思わず口の端から空気が漏れた。唇が勝手に吊り上がる。
止められない。
「おい、なに笑っていやがる。ビビって頭おかしくなったか?ギャハハハっ」
男は己の優位を確信して、必要以上に甚振ろうと下卑て笑う。
アイザークは弾むような声で言った。
「ねえ」
いや弾んだ声で言う。まるで素晴らしい玩具を見つけた子どものように。
「右のおじさんのポケット。……昨日盗んだ『お金』が入っているね?」
凍りつくような静寂。アイザークは「正解」だけを無邪気に放り投げる。
「あ?」
真ん中の巨漢が反射的に右の男を見た。
右の男が、ピクリとポケットを押さえる。
「てめえ……まさか」
「ち、違う! このガキ! なにをデタラメを!」
焦燥、殺気。
左の男が、仲裁に入ろうと身を乗り出す。
その瞬間、アイザークの青い瞳が怪しく細められた。
アイザークは袖に隠した杖先で、空中の魔素をほんの数ミリ、弾いた。
狙うは左の男の、腕の神経。
ビクンッ
「え?」
左の男の腕が勝手に跳ね上がり、握っていたナイフが、前の男の背中を切り裂いた。
「ぎゃあっ!?」
「ち、違う! 俺の手が勝手に……!」
「あはっ! 見て、おじさん!」
アイザークが無邪気に叫ぶ。
「こいつも裏切り者だ! みんな、君が死ぬのを待ってるよ!」
「この野郎ォォォォ!!」
言い訳は怒号にかき消された。
疑心暗鬼という火薬庫に、アイザークが魔法という火種を放り込んだ。
泥水を跳ね上げ、男たちが互いの急所を狙って殺し合いを始める。一人が逃げ出し、残る二人が転げ回る。
アイザークは壁際でそれを見ていた。
血飛沫が飛んでくる。
その熱ささえも、今は愛おしい。
(すごい。すごいよ)
指先一つ。たったそれだけで、愚かな人形がアイザークの盤上で踊り狂う。
指先を数ミリ動かすだけで、筋肉の収縮すらアイザークの意志に従う。たった一度の干渉で、昨日まで信じ合っていたフリをしていた絆が、これほど容易く千切れる。
脳内物質がドバドバと溢れ出し、視界がチカチカと明滅する。
誰かの顔色を伺い、無害な子どもを演じるだけの毎日では決して味わえなかった、ヒリつく命のやり取り。
これだ。アイザークが欲しかったのは、この「生」の味だ。
「あはっ……っつふは! あははははッッッッ!」
笑いすぎて、お腹が痛い。涙が出てくる。
こんなにも世界は鮮やかだったのか。
ドサリ、と男が一人喉から泡を吹いて絶命した。
残ったもう一人の男も、腹から血を流して荒い息を吐いている。
「……な、おい、やめろ……助け……」
男には先ほどの威勢などはもう無く。ただ弱々しく、掠れた声で哀願し、アイザークにすがりつこうと手を伸ばす。
アイザークは、ゆっくりと男に近づいた。
パシッ。
躊躇なく、その泥だらけの手を革靴で踏みつける。
「ぎゃっ……!」
「あはははっ! 形勢逆転だねえ? お前はもう、ただの『負けた駒』だ」
アイザークは袖から杖を取り出した。
頬が火照り、どこまでも高揚するこの心地。
いまだに上がり続ける口角。
「ねえ、知ってる?ゲームオーバー瞬間って、すごく綺麗なんだって」
ニィイイっと笑った。
無邪気で、残酷な、天使の笑顔。
その瞳は暗闇の中で燐光を光を放つように青く輝いている。
「バイバイ!」
杖先から、圧縮された火炎が噴射する。
ドォォォォォッ!!
「ギャアアアアアアアアア――――……」
断末魔。肉の焦げる匂い。
炎が男を包み込み、炭へと変えていく。
アイザークはその炎の揺らめきを、うっとりと見つめていた。
――アァ。
ここは地獄のような天国だ。地位も名誉も血筋なんて関係ない。ただ力と知恵ある者だけが生き残り、笑うことのできる場所。
(カルシス王国へ行こうと思ってたけど、……やーめた)
あんな退屈そうな場所。
ここだ。ここなんだ。自分らしくいられて、心の底から笑える場所は。
この腐臭と鉄錆の匂いがする底にしかない。
ガタッ。微かに音がした。ーー誰かいる。
興奮でギラついた瞳が闇の奥を射抜く。
「だぁれ?……ぼくの、次の対戦相手?」
愉悦に歪んだ笑顔のまま、アイザークは問う。
現れたのは一人の青年だった。
彼は斬撃の跡地を、まるで散歩道のように歩いてくる。
「子どもの口喧嘩にしちゃあ、少々致死量を超えているな。お坊ちゃん」
彼の視線には恐怖がない。それどころか、仄暗い光を纏っていた。
「きみ、初めから見ていたね」
アイザークが確信を持って問いかけると、青年は肩をすくめた。
「これほど鮮やかな『自滅誘導』はそうお目にかかれない。いいものを見させてもらった。」
彼はアイザークの前に立ち、その濡れた頬を見下ろした。
アイクの喉元にナイフを向けることもせず、ただ値踏みするように見下ろす。
「どうやった? 誰に教わった?」
「教わってないよ」
火照った顔でアイザークは恍惚として言う。
「ただ、こうすれば壊れると『理解』しただけだ」
そういって首を傾げて見せた。
積み木を崩した子供のような、純粋で残酷な無邪気さ。
「……は。とんでもねえ化け物だ」
青年が呆れたように笑った、その時だった。
ギュルルル……
死と雨の匂いが充満する路地に、ひどく間の抜けた音が響いた。
アイクの表情が崩れ、一瞬で耳まで朱に染まる。同時に瞳の蒼がスウッと引いていき元の灰青に戻る。
青年は目を丸くし、数秒の沈黙の後――腹を抱えて吹き出した。
「くっ……ははは! なんだ、化け物かと思ったら、腹は減るのか!」
「……う、うるさい。たっくさんカロリーを使っただけ!」
「はいはい、そうだな。……おい、お坊ちゃん。冷めたスープと硬いパンで良ければ、奢ってやるぞ。ついてくるか?」
青年は背を向けた。
助けの手を差し伸べるのではなかった。
利用し合おうという共犯者への誘い。
アイクは、自分の胸の奥の空洞が、少しだけ熱を持つのを感じた。
それは初めて得た、ある種「対等な他者」の気配。
(……スープか)
悪くない。
アイクは泥を避けて、その背中を追った。
「……俺は、オアンネスだ」
歩き出しながら、青年――オアンネスが背中越しに言った。
名乗るつもりなどなかっただろうに、気まぐれのように投げられた名前。
「お前は?」
アイクは少しだけ沈黙し、それからポツリと答えた。
「……アイク」
「アイク? 可愛らしい名前だな」
「あはっ死んだ者の名前だしね。」
二人の影が、雨の夜に溶けていく。
アイザーク=フルイド=ヴェルエリン。
この日、帝国は一人の皇子を失い、裏世界は、最も美しく無慈悲な「王」の萌芽を目撃した。
※ ※ ※
ーーそれから4年
アイクは、かつての主が使っていた無骨な執務机の上に、行儀悪く座っていた。黒い革靴の先を、空中を蹴るようにぶらぶらと遊ばせる。
「アイク。『夜天の檻』総帥就任、おめでとう」
「あ、オアン! ……なんか簡単すぎて楽しくなぁーい」
一瞬キラッと目を輝かせたものの、すぐにその光を失う。アイクはつまらなそうに唇を尖らせた。
前代の総帥との頭脳戦は、彼にとっては数手で終わるチェックメイトに過ぎなかった。オアンネスが含み笑いをする。
「俺は君の傍で盤面を見ていて、十分楽しかったんだがな」
「あ、うそうそうそ。全然嘘。楽しかったよ? ……『嬉しくない』って言い間違えただけ」
ぶほっ、とオアンネスが吹き出した。
アイクはあと1年もしないうちに、皇族として生きた年月を超える。
アイクは手元にあった黒い布を、一切の迷いなく両目に巻きつけた。
「なんだ、それは」
「んー、ハンデ。見えすぎちゃうからね。世界との調和って大事だと思わない?」
視覚を遮断したまま、アイクは首を傾げて無邪気に笑う。
「明日にはアザだらけになっている未来が見えるな。湿布でも用意しておこうか」
「はぁああ、そんなことないから! 僕を誰だと思ってるの!」
意地悪なことをいったオアンネスにフンッと拗ねたように、アイクが窓枠を蹴って、闇の中へ躍り出た。目隠しをしたままとは思えない。軽やかな飛翔。
「どこへ行くんだ?」
「散歩!」
返ってきたのは夜風に乗った無邪気な声だけだった。
数分後、規則正しいノックが三回。
「どうぞ」
「しっつれいしまーす。……ってあれ? オアンネス枢機卿。総帥はどちらに?」
現れたのは、書類の束を抱えた筆頭従士ウーヴェだった。
「散歩に行かれた。目隠しをしてな」
「うげぇ。……それ、絶対どこかで返り血を浴びてくるやつじゃないっすか」
顔を顰めたウーヴェに、オアンネスは苦笑する。
「まあまあ。あの子だってまだ子供なんだ。夜遊びくらい多めに見てやれよ」
「そんな呑気なこと言えるのは、枢機卿くらいですよ。……あんな子供の皮を被った『悪魔の化身』を」
ヴェルエリン帝国の帝都の夜は、まるで光り輝く宝石箱のよう。だが、その光が届かない影の底には、泥に塗れた獣たちの掟が、静かにそして深く横たわっている。




