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境が残ってしまった

 最初は、事故ですらなかった。


 紋霞(あやか)市北部、再開発が進む一角で。


「転んだ」

「道に迷った」

「戻れなくなった」


 そんな報告が、ぽつぽつと上がり始めた。


 怪我は軽微。

 死者はいない。


 だから、警察案件にもならず、怪異対策課の正式案件にも上がらなかった。

 ——最初は。



「このエリア、変じゃないですか」


 善野亘(よしのとおる)が、地図を指しながら言った。

 会議室のホワイトボードには、小さな付箋がいくつも貼られている。


 転倒事故。

 徘徊。

 GPS誤作動。


 どれも単発。

 どれも決定打に欠ける。


「再開発地区だから、地形が変わってるだけでは?」


 そう言ったのは、別の職員だった。

 斎藤万央(さいとうまひろ)は、黙って資料をめくっている。

 その沈黙が、「まだ何かある」という合図だと、善野は知っていた。


「……“境界線上”に集中してる?」


 万央が、ぽつりと言った。

 善野が顔を上げる。


「境界、ですか」

「ええ」


 万央は、地図に赤線を引く。


 旧町内境界。

 学区境界。

 昔の道筋。


 今は、どれも意味を持たない線。

 だが。


「事故が起きているのは、ちょうど、この線の上」


 善野は、息を呑んだ。


「祟り、ですか」


 誰かが言う。

 万央は、首を振る。


「――ではないと思います。感情が見えない」

「では、怪異?」


「怪異にしては、弱過ぎます」


 それが、正直な判断だった。

 祓い屋に回すには、“何も起きていなさすぎる”。


「……山川さんを呼びましょう」


 万央は、そう結論づけた。


 怪異でも、祟りでもない。

 古いものが、残ってしまった案件。


 そういう時、人間側だけで判断するのは、危険だ。




 現地は、昼間でも人通りが少なかった。

 更地と、新しい建物が混在する、落ち着かない場所。


「何も……ないですね」


 善野が言う。

 見た目は、確かにそうだった。


 万央は、一歩だけ、足を止める。

 ——境界の感触。

 言葉にできない違和感。


「こんにちは、斎藤さん。善野さん」


 低い声が、背後からした。

 振り返ると、そこに山川主悦(やまかわちから)が立っていた。


「こんにちは、山川さん」


 大柄な体。穏やかな表情。整った服装。

 それでも。


 人の姿をしていても、“人ではない”と分かる圧。


「どうですか」


 万央が問う。

 山川は、辺りを一瞥して、舌打ちした。

 彼にしては珍しい。


「最悪ですね」

「祟りですか」


「違います」

 山川は、地面を睨む。

「境です」


 万央と善野は、顔を見合わせた。


「……(さい)の神ですか。もしくは(くなど)の神」

 万央が言うと、山川は一瞬だけ、驚いた顔をした。


「斎藤さんは、よく知っていますね」


「くなど」は「来な処」すなわち「きてはならない所」の意味だ。

 元は、道の分岐点、峠、あるいは村境などで、外敵や悪霊の侵入を防ぐ神である。


「文献だけです」

「そうでしょう」


 山川は、何かをしかけて、やめた。

 微妙な仕草だった。


「ここは。これは――守るものが、無くなったまま残っています」


 その時。

 善野は、ふと視線を感じた。


 電線の上。

 一羽の烏が止まっている。


 妙に、じっとこちらを見ていた。

 逃げない。

 鳴かない。

 ただ、見ている。


「……烏?」


 善野が呟く。

 山川は、一瞬だけ、目を細めた。


「気にしなくて大丈夫です。昔からいるだけです」


 山川は、万央を見る。


「祓う話じゃありません」


「ええ」

 万央は、頷いた。

「これは——壊すか、残すかの話ですね」


 境界に、風が吹く。


 誰もいないはずの場所で、空気が、わずかに揺れた。

 烏が、羽を広げる。

 高い場所から、すべてを見下ろすように。


 まだ、何も始まっていない。

 だが。

 この境は、確かに“生きていた”。



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