聞いてほしかっただけ
その日は、定時を少し過ぎても庁舎の灯が残っていた。
怪異対策課のフロアは静かだ。
人の気配が減ると、逆に音が目立つ。
キーボードを叩く音。
コピー機の低い駆動音。
善野亘は、自席で報告書の文言を確認していた。
そこへ。
「……善野さん」
少し遠慮がちな声がした。
顔を上げると、監物美咲が立っていた。
「もう、上がったと思ってました」
「私も、そのつもりだったんですけど」
苦笑する。
「ちょっと……いいですか」
給湯室の明かりは、昼より柔らかい。
紙コップに注いだお茶を、監物は両手で包んだ。
しばらく、何も言わない。
善野は、急かさなかった。
——この沈黙は、言葉を探している時間だ。
「……私」
監物が、ぽつりと口を開く。
「今日の件、間違ってましたよね」
善野は、すぐに否定しなかった。
「感情的でした。斎藤さんに言ったことも――仕事としては、越えてたと思います」
視線は、紙コップの縁に落ちている。
「でも」
声が、少しだけ揺れた。
「分かってたんです。理屈は、全部」
善野は、黙って聞く。
「それでも……あの人を」
言葉が詰まる。
「一人で帰らせるのが、嫌で」
監物は、そこで初めて顔を上げた。
目が、少し赤い。
「“大丈夫”って言われた瞬間の顔、私、見ちゃって。それを、なかったことにされるみたいで……」
声が、落ちた。
「斎藤さんは、正しいです」
はっきり言う。
「線を引く理由も、分かる。――でも」
監物は、苦笑する。
「私、ああいう切り方が出来ないんです」
善野は、ゆっくり頷いた。
「……そうですね」
それだけ。
否定もしない。
正解も出さない。
「善野さんは」
監物が、恐る恐る聞く。
「どう思いました?」
——逃げ道を、求めている声だ。
善野は、少し考えてから答えた。
「監物さんが、その相談者さんのことを、本気で心配してたのは、伝わりました」
美咲の肩が、ほんの少し下がる。
「ただ」
善野は、続ける。
「斎藤さんの判断が、間違っているとも思いませんでした」
監物は、黙って聞く。
反論しない。
「たぶん、役割が、違うんだと思います。監物さんは、“今の気持ち”を見る人で」
善野は少しだけ目を細めた。
「斎藤さんは、“これから先”を止める人です」
美咲は、息を吐いた。
「……ずるいですね。どっちも、必要だなんて」
少しだけ、笑う。
しばらくして。
「善野さん」
「はい」
「……ありがとうございます」
唐突だった。
「あのとき、止めなかったから」
善野は、首を振る。
「止める理由が、なかったので」
それは、本心だった。
監物は、少し迷ってから言う。
「私、仕事としてじゃなくて……個人的に」
一瞬、言葉を切る。
「善野さんが、ここにいてくれて良かったって思いました」
善野は、返事に困った。
それを、悟らせないようにする。
「そう言ってもらえるのは、嬉しいです」
それ以上は、言わない。
廊下に出ると、もう夜だった。
エレベーターを待ちながら、監物が言う。
「明日は、ちゃんとします」
「はい」
「感情は……」
「ゼロにしなくていいと思います」
善野は、静かに言った。
「仕事に、持ち込みすぎなければ」
美咲は、少しだけ目を見開いてから、笑った。
「……優しいですね」
エレベーターが、到着する。
扉が閉まる直前。
監物は、思う。
——この人は、逃げ道になってくれるけど。
踏み込ませてはくれない。
だから。
きっと、好きになってしまった。
それでも、まだ。
恋には、ならない。




