触れてはいけない線
旧樋口邸の案件が終わって、一週間後だった。
怪異対策課に、文化財課から再度連絡が入った。
「……展示室で、人が倒れました」
万央は、受話器を持ったまま動かなかった。
「怪我ですか」
『意識はあります。ただ……“誰もいない部屋で、叱られた”と』
その言葉で、万央は立ち上がった。
倒れたのは、若い学芸員だった。
展示替えの最終確認で、夜間に一人で入室したという。
「位置を、少しだけ変えたんです」
ベッドの上で、彼はそう言った。
「数センチだけ。見栄えが良くなると思って」
そして、続けた。
「そしたら……背中を、強く押されました」
物理的な外傷はない。
だが、“押された”感覚が、はっきり残っている。
万央は、夜の邸内に入った。
一人で。
善野は止めたが、「確認だけです」と言って。
展示室。
帳面は、元の位置にある。
「……私の判断が、甘かった」
万央は、静かに言った。
「“触れない”と決めただけで、“線”を引いていなかった」
空気が、重くなる。
これは、怒りではない。警告でもない。
逸脱への拒否反応だ。
万央は、帳面に手を伸ばした。
触れるつもりはなかった。
だが、距離を測り損ねた。
その瞬間。
視界が、反転した。
床が、急に近付く。
背中に、衝撃。
息が、一瞬止まる。
——落とされた。
万央は、理解した。
この怪異は、人を害する意思がないからこそ、容赦がない。
善悪の判断がない。
加減もない。
“違う”ものを、排除するだけ。
気付いたとき、万央は、床に倒れ込んでいた。
頭が、ひどく重い。
吐き気。
冷や汗。
立ち上がれない。
「……線を、越えた」
それが、はっきり分かった。
翌日。
万央は、怪異対策課の会議室にいた。
首に、軽いコルセット。
善野が、黙ってお茶を置く。
「……怖かったですか」
万央は、少し考えた。
「いいえ」
「じゃあ、ショック?」
「……はい」
万央は、正直に言った。
「私は、“話が通じる”前提で考えていました」
「でも、通じない相手だった」
「ええ」
追加対応が決まった。
旧樋口邸は、夜間完全立ち入り禁止。
展示物は、固定。
動かさない。
「共存」ではない。
「尊重」でもない。
距離を取る。
報告書の最後に、万央は、個人的な注記を書いた。
日本古来の物の怪は、人に理解されることを前提としていない。
“分かろうとする行為”自体が、越えてはならない線になる場合がある。
「無理しないでください。斎藤さんは、人間なんだから」
善野の言葉に、万央は少しだけ笑った。
「……そうでした」
その夜。
万央は、珍しく夢を見た。
何も言わず、ただ“そこにある”空間。
そして、自分が、はっきりと異物だった感覚。
目が覚めても、その違和感は、消えなかった。
それが、彼女に残った、唯一の後遺症だった。




