名を持たないもの
午前十時過ぎ。
怪異対策課に、文化財課経由の相談が回ってきた。
内容は簡素だった。
市指定史跡・旧樋口邸にて
夜間、展示替えが元に戻る
触れた形跡なし
防犯記録に異常なし
夜。
齋藤万央は善野亘を伴って、旧樋口邸へと向かった。
旧樋口邸は、江戸後期の町屋を保存した建物だった。
梁は低く、畳は新しいが、空気は古い。
入った瞬間、万央は“それ”が“いる”と分かった。
姿は見えない。
音もしない。
だが、ここにあるべきものが、あるべき場所にある。
それが、動いた。
「……戻している」
善野が、小声で言う。
展示替えで外された、古い帳面。
使われなくなった火鉢。
封印扱いされた神棚の欠片。
夜になると、すべて元の位置に戻る。
壊さない。
増やさない。
ただ、戻す。
「主張が、ありませんね」
善野が言う。
「祟りも、警告もない」
万央は、室内を見回した。
「“正しい状態”を、維持しているだけです」
文化財課の職員は、困っていた。
「展示計画が、進まないんです」
「危険性は?」
「ありません」
「怪我人は?」
「いません」
万央は、淡々と頷いた。
「では、これは怪異ですが――対処対象ではありません」
「……え?」
「祓う理由がない」
再びの夜。
万央は一人、邸内に残った。
灯りを落とす。
「お話をしに来ました」
返事はない。
だが、空気が少しだけ、締まった。
「あなたは、ここを壊したくない」
沈黙が返る。
「守りたい、というより“変えたくない”」
畳が、軋んだ。
万央は、続ける。
「名前は、ありますか」
――ない。
「役割は?」
――昔は、あった。
それだけ。
万央は、理解した。
この怪異は、人が“忘れたあと”に残る。
信仰でもない。
怨念でもない。
慣習の残滓だ。
翌日。
万央は、報告書を書いた。
日本古来の怪異
無名・非人格型
行動原理:配置維持
危険性なし
対応欄には、こうある。
対応せず、展示計画を変更すること
文化財課は、戸惑った。
「……怪異に、合わせるんですか」
「はい」
万央は即答する。
「こちらが後から来たので」
結果。
展示は、「可動展示」に変更された。
夜間、元に戻される前提。
説明文には、こう書かれた。
「当時の配置を、夜間に再現する現象があります」
観光客は、面白がった。
苦情は、出なかった。
帰り際。
善野が言う。
「説明、しないんですね」
「日本の怪異……この場合、物の怪は、説明を求めません」
万央は、静かに答える。
「納得も、しません」
「じゃあ、どうやって共存するんですか」
万央は、少し考えた。
「邪魔をしないことです」
夜。
旧樋口邸。
誰もいないはずの座敷で、帳面が、静かに元の位置に戻る。
それを見届けるように、何かが、そこにいる。
名もなく。主張もなく。
ただ、昔から、そこにあった形のまま。
結語。
この怪異は、人が説明を諦めたあとに残る、正しさの影である。




