それでも回っている
弓削田遥香は、もう窓口には来ていない。
それが、良い兆候なのかどうかは、誰にも分からなかった。
斎藤万央は、業務としてその案件を追っていない。
正式な記録は、更新されていない。
経過観察のまま、時間だけが進んでいる。
制度としては、正しい。
ただ、万央は知っている。
月に何度か、弓削田から短いメッセージが届く。
「今日は、自分で決めたよ」
それだけ。
何を決めたのかは、書かれていない。
聞かない。
聞いてはいけない。
それが、あの夜の約束だった。
怪異対策課では、特に変わったことは起きていない。
存在感希薄型の相談は、相変わらず来る。
役割に食われそうな人は、減らない。
弓削田の件は、特別でも、前例でもない。
だからこそ、善野亘は時々、不安になる。
「……斎藤さん」
「はい」
「最近、無理してませんか」
何でもない調子で聞く。
業務中。
完全に、後輩の顔だ。
「大丈夫です」
万央は、即答する。
返答の速さに、少しだけ、善野の胸が痛む。
昼休み。
二人で並んで、庁舎の外を歩く。
特別な用事はない。
ただ、時間が重なっただけだ。
「この前の件」
善野が、切り出す。
「……仕事じゃなくていいって、言いましたよね」
「ええ」
「今も、そう思ってます」
万央は、歩調を緩めた。
「善野くん」
「はい」
「それは、優しさ?」
善野は、少し考える。
「……尊敬です」
即答だった。
「尊敬してる人が、一人で壊れそうになるのは、見たくないです」
万央は、何も言わなかった。
否定もしない。
夕方。
デスクに戻ると、業務メールに一通、「それ」が混じっていた。
差出人は、弓削田遥香。
「今日は、何も頼まなかった」
万央は、短く返信する。
「それでいいと思う」
それ以上は、書かない。
善野は、そのやり取りを知らない。
だが、分かっている。
斎藤万央は、まだ止まっていない。
それでも。
以前より、ほんの少しだけ、こちら側に戻ってきている。
だから、今日はそれでいい。
帰り際。
「斎藤さん」
「はい」
「もし、また“仕事じゃない相談”があったら」
一瞬、間を置いて。
「……声、かけてください」
万央は、微かに笑った。
「その時は、後輩として、聞きます」
それでいい。
名前をつけない関係。
境界を越えない距離。
それでも、確かに、誰かが誰かを支えている。
怪異は、昨日も、今日も、明日も。
消えないまま、どこかに存在している。
だが、人もまた、簡単には消えないのだと。
万央は、そう信じて、また明日も窓口に立つ。




