個人として
夜九時過ぎ。
紋霞市役所は、もう静かだった。
怪異対策課のフロアも、灯りはまばらだ。
斎藤万央は、自席の引き出しを閉め、私物の鞄を持った。
——今日は、寄り道をする。
公的な訪問ではない。
記録も残らない。
予定表にも書かない。
ただの、同級生を訪ねる行為だ。
インターホンを押すと、すぐに応答があった。
「……万央ちゃん?」
声は、本人のものだった。
だが、少しだけ整い過ぎている、気がした。
万央は気付かないふりをした。
「遅くに、突然ごめん」
「ううん。大丈夫。入る?」
部屋は、きれいに整っていた。
生活感がある。
だが、やはり“途中”がないと感じられる。
「最近、どう?」
世間話のように切り出す。
「普通だよ」
弓削田遥香は、即答する。
「仕事も、ちゃんと回ってるし」
万央は、頷いた。
「……全部?」
一瞬だけ、間があった。
「……うん」
その間に、誰かが確認した気配がした。
「ねえ」
万央は、コップを置き、真っ直ぐに言った。
「“手伝ってる存在”と、話せる?」
空気が、少しだけ重くなる。
弓削田は、困ったように笑った。
「……怒られる?」
「今日は、職員じゃないよ」
万央は、はっきり言った。
「ただの、同級生だ」
沈黙。
それから、弓削田は小さく息を吐いた。
「……出てきて」
誰に向けた言葉かは、分からない。
だが。
空気が、椅子一脚分だけ、詰まった。
声は、直接聞こえなかった。
代わりに、弓削田の口を借りて、言葉が出る。
「——頼まれたから、やっている」
抑揚のない調子。
「断られたことは、ない」
万央は、震えを抑えた。
「頼まれても、やらなくていいことはある」
「……それを、あなたが決める?」
問い返しは、正論だった。
怪異は、責めない。
ただ、事実を置くだけだ。
「彼女は、楽になっている」
「それは——」
「仕事が終わる。責任が果たされる。誰も困らない」
万央は、言葉に詰まる。
全部、合っている。
「でも」
万央は、声を低くした。
「“生きてる”って、そういうことじゃない」
弓削田を見る。
「遥香ちゃん。――あなた、最近“選んだ”?」
弓削田は、答えられなかった。
沈黙が、肯定だった。
「お願いがある」
万央は、怪異に向かって言った。
「手伝う範囲を、決めて」
それは、公式交渉ではない。
記録にも、契約にもならない。
ただの、個人的な願いだ。
「全部じゃなくていい。“本人が選ばなかったこと”だけにして」
空気が、揺れる。
「……それは、効率が悪い」
「人は、効率だけで出来てない」
怪異は、少し考えた。
——考える時間がある、という事実が怖い。
「……分かった」
弓削田の肩が、少し落ちた。
「ありがとう……」
その言葉に、万央は胸が痛くなる。
これは、解決ではない。
猶予だ。
帰り道。
万央は、自分が何をしたかを理解していた。
書類にしなかった。
報告しなかった。
境界を、個人判断で引いた。
これは、怪異対策課の仕事ではない。
「……一線、越え掛けたな」
声に出して、確認する。
いや。踏み越えたかもしれない。
明日、善野に聞かれたら。
説明は、出来ない。
それでも。
弓削田遥香が、“選ぶ”時間を取り戻すなら。
万央は、その責任を、自分一人で背負うつもりだった。
それは、彼女が初めてした、制度から外れた仕事だった。




