違和感
善野亘がその記録を読んだのは、完全に偶然だった。
ファイル名は平凡だ。
相談記録/個人/経過観察。
どこにでもある。
だからこそ、善野は流し読みするつもりだった。
「……ん?」
一行目で、指が止まる。
相談者の基本情報。
氏名、年齢、住所。
どれも、問題ない。
だが、記述の調子が、妙だった。
「……これ、誰が書いた?」
署名欄を見る。
――斎藤万央。
善野は、椅子に深く座り直した。
万央の文書は、正確だ。
余計な感情が入らない。
事実と判断が、きれいに分かれている。
なのに。
「……軽すぎる」
被害の内容が、ではない。
存在の重みが、軽い。
相談者が、紙の上で、薄い。
「やった覚えのない行動が完了している」
「第三者の介入は確認されず」
「現時点で実害なし」
文言は、適切だ。
だが、善野は首を傾げた。
「……“生活侵食”の可能性、ゼロ扱い?」
ここだ。
この一文。
万央は、通常なら、可能性を完全に切り捨てる書き方をしない。
まるで、最初から“侵食される前提”を避けている。
「……知り合い?」
善野は、過去の履歴を遡る。
学歴欄。
高校名。
万央と、同じだった。
「なるほどね」
声が、少し低くなる。
感情が入ると、万央は逆に、制度側に寄りすぎる。
善野は、さらに読み進める。
相談者の言葉は、要約されている。
「“私の代わりがいる”と表現」
「不安を自覚」
「生活機能は維持」
ここで、善野はペンを止めた。
「……おかしい」
相談者の不安は、減っている。
普通、怪異は逆だ。
気付けば、恐怖が増す。
なのに、この記録では、最初は「覚えがない」「変だ」とある。
だが最後は「ちゃんと生きているか」「迷惑をかけていないか」。
——他者視点に移行している。
「……本人、削れてきてるな」
善野は、静かに呟いた。
怪異に好かれているのではない。
役割に、置き換えられている。
善野は、万央の席へ向かった。
「斎藤さん、この相談者なんですが」
「……はい」
「続報、来てないですよね?」
「今のところは」
万央は即答した。
それが、逆に引っかかる。
「斎藤さん」
「はい」
「これ――」
善野は、ファイルを軽く叩く。
「“本人が消えるタイプ”じゃないですか?」
一瞬。
万央の視線が、揺れた。
「……消えていません」
「今は、ですよね。それ」
善野は、はっきり言った。
「でもこれ、本人が消えても、生活が回る構造です」
万央は、黙った。
「誰も困らない。誰も責任を取らない。だから、残る」
善野は、ため息をつく。
「最悪ですね」
「……対応、しますか」
万央の声は、硬い。
善野は、首を横に振った。
「いえ」
「え?」
「今は、できないです。そうですよね」
善野は、ファイルを閉じた。
「介入すると、“代わり”が表に出る」
それは、もっと危険だ。
「だから」
善野は、万央を見る。
「気づいた人間が、覚えておく。――そう、教えられました」
それだけが、今できることだった。
その夜。
善野は、自分用のメモにだけ、こう書いた。
・相談者の質量が減っている
・役割は残っている
・代替が成立しつつある
・本人が不要になる前に、線を引く必要あり
正式文書にはしない。
これは、制度が認めてはいけない兆候だからだ。
善野は、ペンを置いた。
「……ほんと、嫌な仕事だよ」
窓の外で、街はいつも通り回っている。
誰かが欠けても、何事もなかったように。
それが、いちばんの怪異だと、善野は知っていた。




