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控え

 年度末。

 怪異対策課では、内部文書整理週間に入っていた。

 過去五年分の紙資料を倉庫から出し、保存・廃棄・電子化に振り分ける。

 誰も何も期待していない作業だ。

 だが、こういう時に限って、()()は出てくる。


 段ボール箱の底。

 背表紙に、手書きでこうある。

霞ケ丘(かすみがおか)団地/過去案件」

 斎藤万央(さいとうまひろ)は、箱を開け、一つひとつ書類をめくっていく。

 そして、指が止まった。

 退去届。

 例の案件の――()()だった。


 様式は同一。紙質も同一。受付番号も、同じ。

 だが、原本と、完全には一致していない。


 世帯主欄。

 薄く、名前が書かれている。

 だが、どの漢字とも読めない。

 文字として成立しているのに、文字として登録できない。

 万央は、思わず口にした。


「……こんな字、住民基本台帳に使えない」


 さらに、控えにだけある記載があった。

 備考欄。

 原本にはない、一文。

「迎えられなかったため、退去」

 公印はない。追記者名もない。

 だが――筆跡が、自分の字に似ている。

 似過ぎていて、万央が書いていないことを、否定できない。


 もう一つ。

 受付番号の末尾。

 控えだけに、「‐b」が付いている。

 システムを確認する。

「‐a」=原本

「‐b」=行き先不明

 通常、「‐b」は存在しない。

 振られない番号だ。


 課内で、小さな確認が行われた。

 古参職員の顔が曇る。

「……控えが残るのは、本来()()()()()()時だ」

 課長は、即断しなかった。

 少し考え、そして言う。

「燃やすな。でも、回すな」

 存在は、認める。だが、扱わない。


 その夜、万央は夢を見る。

 市役所のカウンター。

 いつもの配置。いつもの高さ。

 向こう側に、誰かが立っている。

 顔は、見えない。

 だが、控えに書かれていた、あの()()を名乗ろうとする。

 万央は、なぜかそれを止めていた。

「……今は、必要ありません」




 翌日。

 霞ケ丘団地の管理会社から、電話が入る。

「空き室が一つ、増えてるんですが……いつからでしたっけ?」

 本来、空き室は増えていない。

 増えてはいけない。


 控えの写しを見た久世泰輔(くぜたいすけ)は、一言だけ言った。

「これ、退去届じゃないな」

 そして、続ける。

「境界保留届だ」

 警察にも、そんな書類は存在しない。


 怪異対策課内部での暫定解釈は、こうだ。

 原本は、人間側の制度で処理したもの。

 控えは、「向こう側が、制度を理解した証拠」。

 完全に消えたわけではない。

 まだ、戻れる余地が残っている。


 課長は、斎藤万央を呼び、短く告げた。

「斎藤さん。この件、君の担当から外さない」

 一拍置いて、続ける。

「ただし、控えに関する判断は、君しか下すな」

 それは、事実上の専任指定だった。


 万央は、控えをファイルに戻す。

 ラベルは、まだ貼らない。

 貼ってしまえば、確定してしまう。

 これは、保留でなければならない。

 まだ、迎えないために。




 平日の午後。

 怪異対策課の窓口は空いていた。

 電話も鳴らない。番号札も減らない。


 万央は、受付簿が閉じられる音で顔を上げた。

 いつの間にか、名前が書かれている。

 丁寧すぎる字だった。


「霞ケ丘団地の件で、退去の相談を」


 対応した職員は、一瞬だけ迷い、そして万央を呼んだ。


 相談者は、三十代後半くらいに見えた。

 地味な服装。季節に合っている。

 話し方は、丁寧で、言葉を選んでいる。

 声が、少し遠い。

 椅子に、深くは座らない。

 違和感はある。だが、「変」ではない。


「ご相談内容を、伺います」

 万央が言うと、相談者は頷いた。

「私は、もう住んでいません」

 間を置いて、続ける。

「ですが、控えが必要だと聞きました」

 万央の手が、一瞬だけ止まった。


「どこで、その話を?」

 相談者は、少し考える。

「……こちらに来れば、話が通ると」

 誰に、とは言わない。


 相談内容を、斎藤は整理する。

 相談者は、霞ケ丘団地に住んでいたという。

 だが、正式な入居記録はない。

 それでも――

 ゴミを出していた。回覧板を回した。夜、ベランダに立った。

「迎えてもらえると、思ったんです」

 その言葉に、万央は強い既視感を覚えた。


 万央は、引き出しから一枚の書類を取り出し、机に置いた。

 控え。

 相談者は、それを見るなり、安心した顔になる。

「これです。――これがあれば、行けます」


「……どこへ?」

 万央が、慎重に聞く。

 相談者は、すぐには答えない。

「次の場所です。まだ、名前が必要な所」


 万央は、静かに言った。

「この控えは、お渡しできません」

 相談者は、怒らなかった。

 ただ、少し困った顔をする。

「では、書き直していただけますか。今回は、迎えてもらえる形で」


 窓口に、沈黙が落ちた。

 この瞬間、万央ははっきり理解した。

 これは、苦情でも、申請でもない。

 交渉だ。

 行政と怪異の、正式な交差点。


 万央は、いつもの調子で言った。

「規則上、迎えることはできません」

 淡々と、事務的に続ける。

「ですが、留めることもしていません。控えは、こちらで預かります」


 相談者は、しばらく考える。

 そして、深く一礼した。


「……分かりました。では、もう少し待つことにします」


 立ち上がると、椅子が、一瞬だけ軋んだ。

 そこに人が座っていた痕跡が、遅れて現れる。


 退室後。

 受付簿を確認すると、名前欄は空白になっていた。

 ただし、次のページが一行分ずれている。

 万央は、二重線を引かなかった。


 後で話を聞いた久世泰輔は、こう言った。


「あんた、断ったんじゃない。猶予を与えたんだ」


 その後、霞ケ丘団地の件は、いったん置かれる。


 表向きの扱いとして、強制介入は成功。

 退去届は条件付き保留。

 控えは、課内金庫に収納。

 以後、新規相談は来ない。


 報告書の結語は、簡潔だった。


「当面の生活被害なし。

 経過観察とする」


 誰も、異議を唱えなかった。


 だが、待っている間、()()()()()()いるのか。

「迎える」ことは、本当に禁止なのか。

 控えが、増えたらどうするのか。

 そして――斎藤万央自身は、どちら側に立っているのか。


 それらの問いは、まだ、記入欄を持たない。



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