立ち入り禁止区域で起きた事故
水曜日、午前十時二十五分。
怪異対策課に回ってきたのは、事件というよりは「連絡事項」に近い書類だった。
件名:旧庁舎点検作業中の事故について
死亡者:一名
初動対応:紋霞市署
斎藤万央は、書類を一枚めくってから、ほんの少しだけ手を止めた。
旧庁舎。
紋霞市役所が現在の場所に移転する前に、使われていた建物だ。
十年以上前に閉鎖され、今は再開発計画の対象になっている。
「……また、か」
声には出さない。
まだ、怪異とは決まっていない。
死亡者は外部業者の警備員。
夜間巡回中、立入禁止区域で転落。
頭部強打による即死。
ここまでなら、よくある話だ。
万央が違和感を覚えたのは、次の一行だった。
発見状況:当該者は、旧第三会議室前の踊り場にて、伏臥位のまま発見される。
第三会議室。
万央は、別のファイルを引き寄せた。
旧庁舎の過去事故一覧。
黄ばみかけた紙の中に、見覚えのある記述がある。
昭和六十三年
職員一名、第三会議室前踊り場にて転落死
「……一致してる」
ただし、怪異対策課に回すほどではない。
まだ、偶然の範囲だ。
内線が鳴った。
「怪異対策課、斎藤です」
『杜下です』
即座に名乗ったことから、現場対応中だと察せられた。
紋霞大学前駅前交番勤務、杜下卓。
『旧庁舎の件ですが。これ、ちょっと変です』
「どのあたりが」
『時間です』
杜下の声は落ち着いている。
だが、何かを抑えている感じがあった。
『死亡推定時刻が、二十時三十二分。当時の巡回記録も、ちょうどその時間で止まってます』
「――続けてください」
『……昭和六十三年の事故も、同じ時刻なんです』
万央はメモを取った。
「現場は、今どうなっていますか」
『立入規制中です。でも、変な話をすると……』
一拍、間が空く。
『現場に入ると、音が、少し遅れる感じがします』
万央は、その表現を聞いた瞬間に理解した。
これは――霊感の話ではない。
「分かりました。こちらで引き取ります。現場は、これ以上触らないでください」
『……助かります』
電話が切れる。
万央は、課長に一言だけ伝え、現地確認に向かった。
旧庁舎は、街の外れにある。
再開発予定地とはいえ、今はフェンスに囲まれ、人気はない。
建物は、まだ“使える形”をしている。
それが逆に不気味だった。
杜下が、入口で待っていた。
「こちらです」
現場に近付くにつれ、万央ははっきりと感じた。
空気が、整い過ぎている。
埃の匂いはある。
だが、人の気配が途切れた感じがしない。
第三会議室前の踊り場。
そこは、何もなかった。
血痕は処理済み。
破損もない。
ただ、床に――人が伏せていた“余白”だけが残っている。
「……ここですね」
杜下が頷く。
「足を踏み入れると、分かります」
万央は、一歩進んだ。
その瞬間。
カツン。
自分の靴音が、半拍遅れて返ってきた。
「……なるほど」
音だけではない。
空間全体が、ほんのわずかに“巻き戻っている”。
万央は、静かに言った。
「これは、祓えません」
杜下が息を呑む。
「じゃあ……」
「事故でも、怨霊でもない。起きたことを、起きたまま残しているだけです」
万央は、踊り場を見回す。
「条件が揃うと、再生される。人が立てば、人が死ぬ」
杜下は、歯を食いしばった。
「……じゃあ、どうするんですか」
万央は、即答した。
「封じます」
「閉じる、という意味ですか」
「いいえ」
万央は、静かに言った。
「何もなかったことにします」
杜下は、言葉を失った。
万央は、踊り場に背を向ける。
この時点では、まだ一人目。
だが――これは、続く怪異だ。
制度が、決断しなければならない。
祓いではない。
救いでもない。
ただ、ここに人を近付けないと決める。
それが、どれほど重いかを、万央はまだ知らない。




