名前を書くということ
契約書は、よくある様式だった。
外郭団体の臨時職員用。
紙も、文言も、特別なところはない。
唯一、空いているのは名前欄だけだった。
怪異は、その紙を前にして立っていた。
万央の向かい側。
カウンター越しではない。
会議室の机を挟んだ、対等な位置だ。
「急ぐ必要はありません」
万央は言う。
「今日でなくてもいい」
怪異は首を振った。
「……先延ばしにすると、たぶん、薄くなります」
それは、経験から来る確信だった。
必要とされない時間が続くほど、存在感希薄型の怪異は、世界から零れ落ちていく。
「ここに来る前は」
怪異はぽつりと話し始めた。
「頼まれると、嬉しかったんです。名前を呼ばれなくても。“ありがとう”がなくても」
万央は、何も言わない。
「でも」
怪異は続ける。
「最近、分からなくなりました。頼まれているのか……使われているのか」
その違いを、怪異は、もう理解してしまっていた。
万央は、ペンを差し出す。
「書いてください。これは、境界です」
怪異は、ペンを握る。
ぎこちない手つきだった。
名前を書く、という行為は、人間にとっては日常だが、怪異にとっては、世界に固定されることに等しい。
一文字ずつ、確かめるように書く。
名前は、派手ではなかった。
珍しくもない。
どこにでもありそうな、読みやすい名前。
それを書き終えた瞬間、室内の空気が、わずかに変わった。
「……重いですね」
怪異が言う。
「責任ですから」
万央は答える。
契約は成立した。
外郭団体の名簿に、臨時職員として名前が載る。
出勤記録が正式になる。
評価対象になる。
ミスも、成果も、記録される。
便利な存在では、なくなった。
その日の午後、職員の一人が言った。
「あ、新しい人、入ったんですね。よろしくお願いします」
怪異は、少し戸惑ってから、頭を下げた。
「……こちらこそ」
それだけで、胸の奥が、少しだけ痛んだ。
数週間後。
業務成績は、少しだけ落ちた。
以前のような“完璧さ”はない。
だが、期限を過ぎることはなく、クレームも増えていない。
「人並みですね」
センター長が言う。
その言葉を、怪異は、初めて評価として受け取った。
怪異対策課では、報告書がまとめられていた。
「存在感希薄型怪異。
臨時職員契約により、責任と役割を明確化。
便利さを失う代わりに、人格の輪郭を獲得。
当面、制度内対応とする」
古参職員が、書類を見て呟く。
「……辞めさせるより、重い選択だな」
課長は、静かに頷いた。
「だが、使い潰すよりは、ましだね」
万央は、何も言わなかった。
その帰り道。
万央は、センターの前を通りかかる。
窓の中で、怪異――いや、臨時職員が、電話を取り、メモを取っている。
少し遅い。
少し不器用。
だが、確かに、そこにいる。
怪異は、万央に気づくと、小さく会釈した。
万央も、同じように返す。
それだけだった。
便利だった存在を、人として扱う。
それは、助けることでも、救うことでもない。
ただ、責任を引き受けさせるという選択だ。
万央は、自分の仕事を思い出す。
祓わない。
排除しない。
曖昧なままにも、しない。
「溢れないように、流す」
それが出来たなら、それでいい。
怪異対策課の窓口は、今日も静かだった。




