頼まれたからやった
怪異対策課の会議室は、昼過ぎになると静かになる。
午前中の案件処理が一段落し、誰もが書類に戻る時間帯だ。
斎藤万央は、その静かなときを選んで、外郭団体の件を課内共有に回した。
「存在感希薄型。自発性は低く、依頼に対して過剰適応。現在は人員として扱われています」
モニターに映る資料は、淡々としている。
出勤記録あり。
成果物あり。
苦情なし。
――問題が、見えない。
古参職員の一人が、腕を組んだまま言った。
「……本人は、何て?」
「“頼まれたからやった”と」
それだけで、会議室の空気が少し変わった。
その日の夕方。
万央は再び、地域生活支援センターを訪れていた。
業務終了後の時間。
職員はまばらだ。
「少し、お話を聞かせてください」
そう声をかけると、あの存在は、自然に隣に立っていた。
意識しなければ、気づかない距離。
「あなたは、いつからここに?」
「正確には、覚えていません」
声は穏やかだ。
「ただ、最初は……書類が溜まっていました。相談者が多くて。皆さん、忙しそうでした」
万央は、メモを取らない。
今日は、記録ではなく、対話だ。
「誰かに、頼まれましたか」
「最初は」
怪異は、少し考える。
「“誰かがやってくれると助かる”と」
それは、命令ではない。
だが、拒否もしにくい言葉だ。
「やれると思った?」
「はい」
「断る理由は?」
「ありませんでした」
万央は、ゆっくり続ける。
「やってはいけない、と言われたことは?」
「ありません」
「やらなくていい、と言われたことは?」
「……ありません」
万央は、その答えを噛みしめた。
「あなたは、自分を職員だと思っていますか」
怪異は、少し困ったように首を傾げる。
「職員、という言葉は、責任がある人、ですよね」
「そうです」
「では、違います」
即答だった。
「私は、責任を負ったことがありません」
それは、逃げでも、否定でもない。
事実だった。
「怒られたことも、評価されたことも、辞めていいと言われたことも、ない」
万央は、はっきりと言う。
「それは、働いている状態ではありません」
怪異は、驚いたように目を見開く。
「……でも、皆さん、助かっていました」
「はい」
「感謝も、されました」
「それも事実です」
万央は、少しだけ声を低くする。
「だからこそ、危険なんです」
善意で始まった行為。
便利さで続いた関係。
だが、そこには、区切りがない。
「あなたが失敗したら、どうなりますか」
「……分かりません」
「あなたが突然いなくなったら?」
「……困ると思います」
「その“困る”を、誰が引き受けるか」
万央は、真正面から問う。
怪異は、答えられなかった。
数日後。
センター内で、小さな混乱が起きた。
一件の書類に、誤記が見つかった。
重大ではない。
だが、訂正が必要だ。
「これ、誰が処理したんだっけ」
職員が首を傾げる。
名簿を見る。
記録を見る。
――名前はある。
だが、誰も思い出せない。
「……まあ、直しておこう」
善意で、誰かが引き受けた。
その瞬間、怪異の存在が、ほんの少し薄くなった。
万央には、それが分かった。
「助けになれていない」と、本人が思ったからだ。
その日の夜。
怪異は、万央に静かに言った。
「最近、少し……ここに、いにくいです」
「仕事は、ありますか」
「あります」
「でも……私じゃなくても、いい気がします」
それは、消えたい、という願いではない。
責任を持てない自分への、戸惑いだ。
万央は、頷いた。
「それが、普通の感覚です」
「……普通」
「はい。働く、というのは、頼まれることではなく、引き受けることです」
怪異は、黙って聞いている。
「そして」
万央は、続ける。
「引き受けるには、名前と立場が必要です」
怪異対策課に戻り、万央は報告書を書いた。
「当該存在は、悪意なし。
自己決定権が希薄。
“役に立つこと”のみを求められている状態」
古参職員が、肩を落とす。
「……これ、辞めさせるのか」
「はい」
「祓うより、きついな」
万央は、否定しない。
「ですが、必要です」
その夜。
万央は、ひとつの選択肢を考えていた。
正式に、雇う。
名前を与え、立場を与え、責任を与える。
それは、救済でも、処罰でもない。
――区切りだ。
だが、それは同時に、「便利な存在」でいる“自由を奪う”行為でもある。
万央は、ペンを止めた。
次に進めば、もう戻れない。




