名簿に存在するが、誰も会ったことがない
翌日、斎藤万央は再び地域生活支援センターを訪れていた。
目的は単純だ。
「その人」に、実際に会うこと。
昨日は確かに、会話をした。
だがそれは、視線を合わせ、存在を意識し続けた結果だった。
今日は違う。
日常業務の中で、誰がどう関わっているのかを見る。
午前十時。
相談窓口は混み合っていた。
高齢者の生活相談。
障害者支援の手続き。
関係書類の確認。
処理は早い。
迷いがない。
「この案件、昨日のうちに整理してくれた人がいて」
「助かりました」
「引き継ぎ、完璧でしたよ」
職員たちは、口々にそう言う。
「誰が?」
万央が尋ねる。
返ってくる答えは、毎回、同じだった。
「……名簿にいる人です」
「ほら、あの……」
「説明が、すごく分かりやすい人」
だが、名前を言おうとすると、言葉が止まる。
万央は、メモを取る。
・業務内容は具体的に覚えている
・人柄は「穏やか」「丁寧」
・しかし、顔・声・服装は思い出せない
――典型的な存在感希薄型。
休憩室。
万央は、コーヒーを淹れながら職員に聞いた。
「一緒に昼食を取ったことは?」
「……あった、ような」
「でも、いつも気づいたら一人分多い椅子があって」
「気づいたら片付いているんです」
「送別会や歓迎会は?」
「……してません」
「自然に、いたので」
自然に、いた。
その言葉に、万央は小さく頷く。
これは、誰かが“連れてきた”怪異ではない。
不足が呼び込んだ。
午後、業務日報を確認する。
そこには、確かに「彼」の名前がある。
処理件数。
担当案件。
備考欄には、こう書かれていた。
「特記事項なし」
完璧すぎる。
ミスがない。
遅延がない。
不満もない。
万央は、書類を閉じた。
――これは、「人として扱われていない」わけではない。
逆だ。
あまりにも、”都合のいい人材”として扱われている。
夕方、万央は意図的に、声をかけた。
「今日は、ありがとうございました」
空間が、わずかに揺れる。
「いえ」
昨日と同じ声がした。
振り返ると、そこに立っている。
「役に立てて、良かったです」
「……疲れませんか」
万央は、事務的に聞いた。
怪異は、少し考える。
「疲れ、というより――“終わりどころ”が、分からないです」
万央は、その言葉を聞き逃さなかった。
「辞める、という概念は?」
「ありません」
「では、続けるのは?」
「頼まれている間は」
それは、雇用でも、契約でもない。
期待による「拘束」だ。
万央は、ゆっくり言った。
「貴方がいなくなったら、この部署は困ります」
「はい」
「だからといって、このままではいけません」
怪異は、静かに聞いている。
「名簿に名前がある以上、責任が発生します」
「責任……?」
「失敗した時、誰が責任を取るか、ということです」
怪異は、少しだけ困った顔をした。
「私は……怒られたことが、ありません」
「それが、問題です」
万央は、はっきり告げた。
その夜、怪異対策課で共有が行われた。
古参職員が、名簿の写しを見て言う。
「……これ、小鳥遊の時とは違うな」
「どう違いますか」
万央が問う。
「小鳥遊は、“役割”が人を縛った。だが今回は」
古参職員は、指で紙を叩く。
「誰も縛っていない。――なのに、残っている」
課長が、低く言う。
「責任の空白だね」
万央は、その言葉を胸に落とした。
翌朝。
センターの業務は、今日も滞りなく進んでいる。
だが、万央には、はっきり見えていた。
この安定は、壊れないのではなく、壊れさせていないだけだ。
誰かが、「辞めさせる」決断をしなければならない。
それは、祓うことよりも、ずっと残酷な行為かもしれなかった。




