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分岐点

 月曜日、午前十時。

 決裁箱が、怪異対策課の机の中央に置かれていた。


 厚みはない。

 だが、重い。


 斎藤万央(さいとうまひろ)は、そこに手を伸ばさなかった。



 岡本絢太(おかもとけんた)――

 死亡届:未提出

 死亡確認:不可

 事故記録:存在

 目撃証言:不十分

 遺体:未確認


 法的には、死亡とは言えない。

 それでも、社会は彼を必要としていない。


 税も、保険も、権利も、義務も――

 すでに、すべて終了している。


「……残っているのは、戸籍だけか」


 古参職員が、低い声で言った。

「正確には、“決裁されていない空白”だ」


 善野亘が、資料をめくりながら呟く。

「これ、誰も間違っていないんですよね」


「そうだ」

 古参職員は即答した。

「全員、正しいことしかしなかった」


 万央は、その言葉を聞きながら思う。


 ――だから、ここまで残った。


 会議は短かった。

 できることは、限られている。

 できないことも、明確だ。


「死亡確認は、できません」

 法務担当が言う。

「医学的証明も、警察の確定もありません」

「戸籍の訂正理由は?」

「ありません」


 沈黙。


 そこで、古参職員が言った。

「だからこそ、だ」

 全員の視線が集まる。

「誰かが“これは終わった”と書かないといけない」


 善野が、息を呑む。

「それ……法的には……」


「グレーだ」

 はっきりと言い切った。

「だが、違法ではない」


 万央は、そこで口を開いた。


「死亡と書かない」

 一同が、万央を見る。

「死亡ではなく、社会的役割の終了として処理します」


 法務担当が、慎重に尋ねる。

「根拠は?」


 万央は、迷わず答えた。

「十五年間、岡本絢太という個人が社会的機能を果たしていない」


「……生きている可能性は?」


「あります」

 万央は、頷いた。

「ですが、社会はすでに、その可能性を前提にしていません」


 その言葉に、誰も反論しなかった。


 決裁文案が、静かに回ってくる。

 万央は、ペンを取った。

 ゆっくりと、書く。


「死亡の事実を確認できないが、社会的役割はすでに終了している」


 その一文が、紙の上に定着する。


 それは、祓いではない。

 救済でもない。

 確定だ。


 決裁印が押される音は、驚くほど小さかった。

 それでも、その瞬間、課内の空気が変わった。


「……終わったな」


 誰かが、そう言った。

 万央は、首を振る。


「終わらせた、です」


 小鳥遊の時とは、違う。

 あの時は、“役割を終えさせる”ことで、解放した。

 今回は、誰も終わらせなかったものを、制度が引き受けた。

 それだけだ。




 その夜。

 岡本絢太は、部屋で万央を迎えた。

 姿は、さらに薄い。

 だが、まだ、そこにいる。


「……決まりましたか」

「はい」

 万央は、正直に答える。

「社会的には、貴方はすでに役割を終えたと判断されました」


 岡本は、しばらく黙っていた。

「死んだ、わけではない?」


「ええ」


「でも……」

 自分の手を見る。

「戻れない?」


「戻れません」

 はっきりと告げる。


 岡本は、ゆっくりと息を吐いた。

「それで、いいです」

 声は、もう遠かった。


「誰も、悪くなかった。ただ……決める人が、いなかっただけだ」


 万央は、否定しなかった。




 帰り道、万央は思う。


 これは怪異ではない。

 奇跡でもない。

 現実そのものだ。


 小鳥遊和彦の件より、はるかに現実的で。

 ――だからこそ、怖い。



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