情が通らない
金曜日、午後四時。
怪異対策課の空気は、どこか落ち着かなかった。
忙しいわけではない。
ただ、扱いにくい案件が机の上に残っている。
斎藤万央は、端末を見つめていた。
岡本絢太――
参照数:減少
行政手続き:整理中
怪異判定:保留
「……まだ、消えない」
独り言のように呟いた声に、善野亘が顔を上げる。
「消える前提なんですね」
「いいえ」
万央は首を振った。
「消えるかどうかは、こちらの都合では決まりません」
善野は、少し考えてから言った。
「でも、小鳥遊さんの時は……」
その名に、古参職員が反応した。
「違う」
即座だった。
「全然、違う」
会議室の全員が、古参職員を見る。
「小鳥遊はな、役割が人を縛った案件だ」
指で机を軽く叩く。
「名簿に載り続けたから、“やるべきこと”が終わらなかった」
そして、岡本の資料を示す。
「だが、こっちは逆だ。誰も責任を取らなかった結果、残った」
善野が、ゆっくり頷く。
「善意、なんですよね」
「そうだ」
古参職員は、少しだけ苦い顔をした。
「かわいそうだから。戻るかもしれないから。決めきれないから」
一拍置く。
「その全部が、制度にとっては“無責任”だ」
室内が静まる。
万央は、その言葉を否定しなかった。
午後、万央は再び岡本の家を訪れた。
扉を開けた岡本は、前よりも少しだけ――輪郭が曖昧だった。
「……薄く、なってますか」
岡本自身が、そう言った。
「はい」
万央は、事実だけを答える。
「行政上の参照が減っています」
「それは、良いことですか」
「通常は」
万央は、少しだけ言葉を選ぶ。
「ただし、完全ではありません」
岡本は、笑ったように見えた。
だが、それは表情というより、印象だった。
「前は、“早くしてほしい”と言いました」
「ええ」
「今は……」
岡本は、視線を落とす。
「迷惑を、かけていないかが気になります」
万央は、静かに聞いていた。
「誰にも、会っていません。何も、触っていません。電気も、水も……」
言葉が、途中で薄れる。
「それでも、まだ“いる”んですよね」
「います」
万央は、肯定した。
「ですが、制度上の影響は、ほぼありません」
岡本は、少し安心したようだった。
「じゃあ……急がなくても、いいですね」
その言葉に、万央は一瞬だけ眉を寄せた。
「いいえ」
きっぱりと言う。
「急がなくていい、という理由にはなりません」
岡本は、驚いたように万央を見る。
「情で処理すると、この状態が長引きます」
「……かわいそうだから、ですか」
「はい」
万央は、頷いた。
「かわいそうだから、決めない。それが、一番長く残る」
岡本は、黙り込んだ。
帰庁後。
善野が、小さな声で言った。
「冷たいですね……」
万央は、否定しなかった。
「制度は、情を拒否します」
古参職員が、静かに続ける。
「だから、人が情を挟む。だが、挟み方を間違えると、終わらせられなくなる」
善野は、深く息を吐いた。
「小鳥遊さんは、役割を終わらせればよかった」
「そうだ」
「でも、岡本さんは……」
万央が、答える。
「責任を引き受ける必要がある」
それは、家族ではない。
本人でもない。
「制度が、です」
その言葉は、誰にも否定されなかった。
夜。
岡本絢太は、部屋で一人座っていた。
時計は、もう見えない。
音も、あまり聞こえない。
だが、まだ考えられる。
(迷惑は、かけていない)
それだけが、今の支えだった。
薄くなりながら、消えないまま。
それでも、終わりに向かっている。
制度が、情を拒否した、その先で。




