対応区分C‐二
怪異対策課の会議は、静かだった。
声を荒げる者はいない。
だが、全員が同じ結論を見ている。
設備が、一人分多い前提に適応し始めている。
住民は、無意識にそれを受け入れている。
夜間、ベランダ、人影。複数の証言。
そして、過去に死亡例がある。
誰も口に出さなかったが、結論は一つだった。
「放置すれば、また誰かが落ちる」
内部呼称――対応区分C-二。
通常、怪異対策課の案件はA(経過観察)かB(環境調整)で終わる。
C(介入)は、極めて稀だ。
表向きの対応は、行政的だった。
緊急設備点検。夜間立入制限。管理会社の臨時常駐。注意喚起の掲示。
市役所として、できることをする。
裏側では、怪異対策課の本業が動く。
団地全体への結界再定義。境界の、縮小。
増えたものを祓うのではない。元に戻す。
それだけだ。
現地対応メンバーは、最小限だった。
課長(立ち会いのみ)。古参職員、二名。
そして――斎藤万央。
課長は、現地に向かう前に言った。
「斎藤さん。今回は君が中央になんなさい」
「……はい?」
意味は、分からなかった。
だが、異論を挟む空気でもなかった。
介入当夜。
時刻は二十三時三十分。
計画停電。
団地の灯りが、一斉に落ちる。
エレベーター停止。階段のみ使用可。
静かだ。
静かすぎる。
斎藤万央は、第三号棟の踊り場に立っていた。
五階。エレベーター前。
風が、内側に吹いている。
本来、外に向かうはずの空気が、こちらへ引き戻されている。
足音が、重なる。
一人分。もう一人分。さらに、どこか曖昧な数。
人数が、合わない。
古参職員の一人が、小声で言った。
「……増えてるな」
その時だった。
万央は、自分でも意識しないまま、ポケットに手を入れていた。
取り出したのは、何も書いていないメモ用紙。
白紙だ。
万央は、それを床に置く。
端を、揃える。
折らない。書かない。
ただ、置く。
誰も教えていない動作だ。
誰も見たことがない所作だ。
それでも――空間が、それを待っていた。
足音が、止まる。
影が、一つ、減る。
だが、完全には戻らない。
声がした。
「……今回は、誰も迎えないんですね」
万央は、顔を上げない。
答えない。
ただ、事実だけを告げる。
「エレベーターは、九人までです」
風が、外へ戻る。
メモ用紙が舞い上がった。外へと飛ばされる。
空間が、静かに縮む。
重さが、正しく分配される。
介入は、成功した。
エレベーターの定員表示と荷重は一致。ゴミ袋の数は元に戻る。掲示板の紙は消えた。
死亡者なし。
記録上、それだけだ。
翌朝。
斎藤万央のデスクに、一枚の書類が置かれていた。
見覚えがない。
市役所の様式。
退去届。
世帯主名:空欄。
退去理由:「役目を終えたため」
印鑑は、どこにも押されていなかった。
万央は、それをファイルに挟む。
処理は、後でいい。
なぜか、急ぐ気がしなかった。
ただ一つ、分かっていることがある。
これは、終わった案件ではない。
役目を終えたのは、誰なのか。
それを、まだ書いていないだけだ。
件名は、事務的だった。
「退去届の取り扱いについて」
斎藤万央の机に置かれていた書類は、様式も、紙質も、完全に市役所の正式書式だった。
不備は一つだけ。
世帯主名:空欄。
押印:なし。
だが――受付番号が振られている。
総務システムで確認する。
番号は、実在していた。
登録日時:介入当夜 二三時四二分。
受付端末:市営霞ケ丘団地 第三号棟 巡回用タブレット。
その時間、その端末は万央が持っていた。
入力した覚えは、ない。
怪異対策課内で、静かな協議が行われた。
声は低く、結論を急がない。
受理しなければ――「一人分」が制度に残る。
受理すれば――存在を、公式に認めたことになる。
古参職員の一人が、ぽつりと言った。
「昔はね、こういうの、燃やしてた」
課長は、すぐに首を振った。
「今は無理だ。システムが覚えてる」
法務係に、形式照会が出された。
回答は、いかにも人間側だった。
「要件不備のため、原則として不受理」
だが、続きがある。
「ただし、実体が確認できない場合、事実行為としての退去が既に完了している可能性あり」
誰も、その一文を深掘りしなかった。
深掘りするには、向いていない文言だった。
斎藤万央は、机に戻り、退去届を見つめた。
受理すれば、「誰か」が存在したことになる。
差し戻せば、「まだ居る」ことになる。
どちらも、正しく、どちらも、危険だ。
万央は、行政的に、一番曖昧な選択をした。
処理区分:条件付き保留
世帯主欄:「記載不能につき空欄」
備考欄に、一文だけ追記する。
「居住実態消失を確認」
万央は、それを自分の名前で決裁に回した。
その瞬間。
システム上の団地入居人数が、一人分だけ、薄く表示された。
完全には、消えない。
だが、次の更新で消えることが、確定する。
古参職員が、小さく呟いた。
「……上手いことやったな」
万央は、画面から目を離さずに言う。
「規則通りです」
その日以降。
団地で、二人分の足音はしなくなった。
ただし、一人分の気配は、残る。
ベランダで、誰かが誘われることはない。
外を見たい、という衝動だけが、静かに消えた。
久世泰輔は、結果だけを聞いて言った。
「あんた、境界を書類で閉じたな」
斎藤万央は、その意味が分からなかった。
分からないまま、否定もしなかった。
怪異は、祓われていない。
消えてもいない。
ただ、行政処理で終わらされた。
斎藤万央の力は、霊能力ではない。
制度を通す力だ。
曖昧にし、薄め、次の更新まで持たせる力。
それは、応急処置にすぎない。
だが、今はそれでいい。
落ちる人間は、出なかった。




