生きていることになっている
水曜日、午前九時半。
怪異対策課の窓口は、まだ静かだった。
斎藤万央は、いつも通り書類を確認していた。
戸籍課から回って来た照会資料。
その束の中に、少しだけ違和感のある一枚が混じっている。
氏名:岡本絢太
生年月日:昭和五十七年
現住所:紋霞市――
死亡欄:空白。
万央は、ページをめくる。
住民税は数年前から免除。
国民健康保険は資格喪失。
だが、戸籍上は――生存。
「……処理が止まってる」
独り言のように呟いた瞬間、内線が鳴った。
「怪異対策課、斎藤です」
『戸籍課です。すみません、その岡本絢太さんの件ですが……苦情が来ています』
「苦情、ですか」
『はい。“本人”から』
万央は、一瞬だけペンを止めた。
「……内容は?」
『自分を、いつまで生きていることにするのか、って』
言葉を選びながら話す声だった。
戸籍課の職員も、それが普通ではないと分かっている。
「分かりました。こちらで引き取ります」
受話器を置いたあと、万央は深く息を吐いた。
現地は、紋霞市郊外の古い住宅地だった。
区画整理から外れたまま、時間だけが積もったような場所。
表札は出ていない。
郵便受けには、投函物がない。
インターホンを押すと、すぐに応答があった。
「……はい」
声は、はっきりしている。
だが、少しだけ遅れて届く感じがした。
「市役所の者です。斎藤と申します」
鍵の開く音。
扉が開いた。
そこに立っていたのは、三十代半ばほどの男性だった。
顔色は悪くない。
服装も整っている。
ただ――
玄関の奥に、人の生活の“熱”がない。
「……来てくれたんですね」
岡本絢太は、静かに言った。
室内は整っていた。
埃はない。
だが、何年も“更新”されていない空間だった。
「失礼ですが……」
万央は、慎重に言葉を選ぶ。
「現在、お一人でお住まいですか」
岡本は、少し考える。
「戸籍上は、そうなっています」
万央は、頷いた。
否定しない。訂正もしない。
「死亡届が、提出されていません」
その一言に、岡本の表情が僅かに歪んだ。
「……ええ。知っています」
「いつ頃から、この状態ですか」
「十五年前です」
即答だった。
「事故でした。公式には」
万央は、メモを取らない。
今は、聞く段階だ。
「ご家族は?」
「……処理を、止めました」
岡本は視線を落とす。
「私が、戻るかもしれないって」
その言葉で、万央は理解した。
この怪異は、怒りでも、怨念でもない。
未確定のまま、置かれた人間だ。
「苦情について、確認させてください」
万央は、淡々と続ける。
「貴方は、“生きている扱い”に不満がある」
「はい」
「同時に、“死んだ扱い”にもされていない」
「……それが、一番困るんです」
岡本は、静かに言った。
「私は、何も出来ない。でも、存在だけは残る」
万央は、その言葉を噛みしめる。
怪異としては、弱い。
だが、制度にとっては、極めて重い。
「貴方は、どうしたいですか」
岡本は、しばらく黙った。
そして、答えた。
「ちゃんと、終わりにしてほしい」
その瞬間、
部屋の空気が、わずかに沈んだ。
万央は立ち上がる。
「分かりました。この件は、怪異対策課で引き取ります」
「……出来るんですか」
「出来るかどうかではなく、やるべき案件です」
岡本は、少しだけ安心した顔をした。
帰り道、万央は杜下卓に連絡を入れた。
「杜下さん。十五年前の死亡事故、未提出案件、覚えはありますか」
『……あります』
即答だった。
『処理が、止まったままのやつですね』
万央は、空を見上げる。
「今回は、止めたままに出来ません」
『……分かりました。協力します』
電話を切る。
生きていることになっている死者。
制度が決められなかった結論。
万央は、心の中で整理する。
――これは、祓う話ではない。
――“認める”話だ。




