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署名欄が埋まらない

 署名欄は、最後に埋まる。

 確認し、責任を負い、それでも問題がないと判断した者の名前が入る。

 だから――そこが空白のままなのは、異常だった。




 教育委員会管理課から、怪異対策課に回ってきた文書。

 件名:「夜間当直業務 管理移管報告書」


 本文は整っている。

 手続きも、根拠条文も、すべて正しい。

 だが、最後。

 署名欄:空白

 押印欄も、同様だった。




「これ、誰が回したんですか」

 万央の問いに、担当者は即答できなかった。

「……気づいたら、回覧に載ってました」

 つまり、誰も責任を引き受けていない。




 その日の午後。

 第一中学校で、事故が起きた。

 理科準備室。

 保管棚のガラスが割れ、教師一名が、腕を深く切った。

 命に別状はない。

 だが――


「誰かに、押された気がしたそうです」


 杜下卓(もりしたたくみ)の声は、低かった。




 現場に残っていたのは、奇妙な痕跡だった。

 床に、足跡がある。

 一人分、多い。

 しかし、その足跡は途中で止まっている。

 まるで、署名する場所が見つからず、立ち尽くしたかのように。




 万央は、静かに言った。

「小鳥遊和彦は、まだ“業務中”です」

 杜下は眉をひそめる。

「当直は終わったはずじゃ」

「当直は、終わりました。でも――」

 万央は、署名欄を指す。

「責任が、引き取られていない」




 夜。

 校舎の廊下で、異変が起きた。

 非常灯が点き、放送設備が、勝手に作動する。

 流れたのは、聞き慣れた声だった。


『本日の当直業務を、開始します』


 それは、小鳥遊和彦の声だった。




 杜下は、拳銃に手をかける。


「……人、ですよね」

 万央は、はっきり答えた。

「元は」




 理科室。

 白衣の背中が見えた。

 人影は、こちらを振り返らない。

 ただ、淡々と作業を続けている。

 完璧な手順。

 無駄のない動き。

 だが――

 近付いた瞬間、万央は気付いた。

 影が、二重だ。




「小鳥遊先生」

 万央は、名前を呼んだ。

 人影は、初めて動きを止めた。

 振り返る。

 顔は、曖昧だった。

 だが、口だけが動く。


「署名が、まだです」




 その瞬間、杜下の足元で床が沈んだ。

 見えない手が、引き摺ろうとしている。

 杜下は、必死に踏みとどまる。


「……っ、斎藤さん!」




 万央は、前に出た。

 声を張らない。

 命令もしない。

 ただ、事実を告げる。


「小鳥遊和彦先生。あなたの業務は、教育委員会管理課が引き受けました」


 小鳥遊の影が、揺れる。

「……署名が」

「署名は、人ではなく、制度が行います」




 万央は、書類を差し出した。

 署名欄の代わりに、赤字で記されている。


 《管理責任:紋霞市 教育委員会》

 印鑑は、既に押されていた。




 影が、一つに戻る。

 床の圧が、消える。

 白衣の人影は、深く一礼した。


「……確認しました」


 次の瞬間。

 そこには、誰もいなかった。




 翌日。

 事故は「老朽化による破損」として処理された。

 追加の被害はない。

 署名欄は、二度と空白にならなかった。




 杜下は、報告書を書きながら言った。

「もしかしたら、人が死ぬところでしたよね」

 万央は、静かに頷いた。

「……ええ」

「それでも、撃てませんでした」

「正しい判断だったと思います」

 杜下は苦笑した。

「褒められると、怖いですね」




 万央は、最後に一文を書き足した。


「未署名状態の業務は、怪異化リスクが高い」


 それは、次の事件への、予告でもあった。



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