適用範囲について
午前十時二十分。
怪異対策課の窓口は、いつも通り静かだった。
受付簿に、きっちりと定規で引いたような字が並ぶ。
来訪者名:記載不可(本人申告)
担当欄に、「斎藤万央」と書かれている。
万央は、ため息もつかずに席を立った。
椅子に座っている女性は、姿勢が異様に良かった。
年齢不詳。
和装でも洋装でもない、落ち着いた服。
動きが少ない。瞬きが、少ない。
何より――書類を揃えている。
クリアファイルに、付箋、索引、目次。
万央は、内心で一つだけ警戒度を上げた。
女性は立ち上がらず、丁寧に頭を下げた。
「本日はお時間を頂戴し、ありがとうございます」
声は柔らかい。
しかし、言葉の選び方が「公的文書寄り」だ。
「早速ですが」
女性はファイルを開く。
「この規則、私にはどこまで適用されますか?」
差し出されたのは、市怪異対応要領・抜粋コピー。
付箋だらけだった。
万央は、普通に受け取った。
「対象の性質によります。差し支えなければ、来歴を」
女性は頷く。
「旧大宮家の名簿に宿っていました。代替わりのたび、記録され、修正され、抹消され……結果として、私は“残りました”」
付喪神。
名簿に宿る、記録系怪異。
万央は、淡々と確認する。
「現在、実体行動は」
「ありません。ただし、記載内容の最適化は行っています」
万央はペンを止めない。
女性は、少しだけ困った顔をした。
「最近、“削除対象”にされることが増えまして。理由が不明確です。私は、規則を守っています」
そう言って、該当条文を正確に引用する。
万央は内心で思う。
(……読み込んでるな)
そのやり取りを、後輩職員の善野亘が横目で見ていた。
「斎藤さん……あの人、誰ですか」
万央は答える。
「相談者です」
善野は黙った。
「それ以上の表現が、浮かばなかった」顔だ。
万央は、女性に言う。
「規則は、行為に適用されます。存在そのものを縛るものではありません」
女性は、少し考える。
「では、“私が、私を管理する”ことは、禁止されていませんか?」
万央は即答する。
「禁止されていません。ただし、他者の記録を侵害しないこと」
女性の表情が、わずかに緩んだ。
「承知しました」
万央は、結論を告げる。
「あなたは、届出不要です。ただし、名簿への介入は、“補助扱い”に留めてください」
女性は深く頭を下げた。
「明確な基準を、ありがとうございます」
そして、立ち上がる。
その瞬間、床が一瞬だけ古い畳の感触を見せた。
誰も、何も言わない。
「……斎藤さん」
女性が帰った後。
善野が、震える声で言った。
「あの人、市の記録全部、読めるタイプじゃないですか」
万央は、書類を綴じながら答える。
「だから、窓口に来ました。来ないタイプの方が、厄介です」
善野は黙った。
その日以降。
市内の古文書整理が、異様に捗る。
誤字が減り、消えかけた名前が、正しい位置に戻る。
誰がやったかは、分からない。
報告書結語。
「高知性記録系女性怪異。
規則理解能力極めて高。
通常対応により安定。
今後も“相談があれば対応”とする」
斎藤万央は、報告書を提出した。
特別なことは、何もしていない。
ただ、制度を、そのまま使っただけだ。
その日も、怪異対策課の窓口は静かだった。




