湯気の向こうに落ちる音
夕方、台所に立つ母の背が、やけに小さく見えた。
「これ、醤油ちょっと足りてないんじゃない?」
雪野は味噌汁をひと口飲んだあと、何気なく言った。澄子は「あら、ごめんね」とだけ答え、もう一度鍋に醤油を足そうとしたが、その手はゆっくりだった。
「そんな手でずっと家事してるなんて、正直信じられない。もうちょっと自分の健康考えたら?」
口に出した後、雪野はすぐに後悔した。でも、それを取り消すようなことは言わなかった。母がどうして何も言い返さないのかも気にならなかった。この頃ずっと、苛立ちが抜けなかった。
夕飯のあとも、雪野は自室にこもってテレビをつけた。外では風の音がしていた。日が落ちていくと、家はどこか遠くに沈んでいくような気がした。
そのとき──風呂場から「ガンッ」と何か硬い音がした。
テレビの音が重ねるように響いていたが、それとは異質だった。鉄のような響き。風呂場の床に何かが倒れた音。
少しの沈黙。次に、澄子のかすれた声。
「義男さん!?」
その言葉が耳に届いた瞬間、雪野は何年かぶりに廊下を駆けた。
風呂場のドアを開けると、浴槽の縁に父が寄りかかっていた。澄子は濡れたタオルを握りしめ、雪野を見た。その目には驚きと疲労と、ほんの少しだけ安堵が浮かんでいた。
雪野は声を出せなかった。母の手が震えているのを見ながら、床に落ちた風呂用の椅子を拾い上げた。熱気と、気まずさが混じったその夜は、いつもよりも静かだった。