理想の縁をなぞる
「……退職、したって」
薄曇りの朝、スタッフルームで聞いた一言に、雪野梢は言葉を失った。
夢野あかりが去った理由は、誰も大きく口に出さなかった。ただ、暗黙の了解のように、一部の利用者が“彼女の若さと容姿”に必要以上に近づいていたという話が、風のように流れていた。
どんなに前向きで明るかった彼女も、現場の空気の重さには抗えなかったのだろうか。
雪野は、その日から利用者との“間合い”を強く意識するようになった。
優しさと近さは紙一重。信頼と過剰な期待は時にすれ違う。
「ありがとう」と言われるたびに、相手の目を探るようになった。
「触れてもいいですか?」と確認する声は、前より少し震えていた。
同僚に聞かれた。「最近、少し慎重だね」
雪野は頷いた。
「優しさって、距離を詰めることじゃなくて、適切な距離を守ることかもしれないなって…思うようになった」
──研修で見たあかりの眩しさが、今では胸の奥で静かに響いていた。
彼女が残したものは、明るさだけではなく、「現場にある見えにくい課題の存在」を浮かび上がらせた。
雪野の介護は、以前よりも少しだけ、静かで深くなった。




