置き去りにされた日常
翌朝、玄関に並べられた小ぶりなトランクと、肩掛けの鞄。梢が目を覚ましたときには、すでに母は支度を終えていた。
「しばらく帰らないから。お父さんのこと、よろしくね」
それだけを言って、母は振り返らなかった。背筋は伸びていた。いつものように背中を丸めて買い物袋を抱えていく人ではなく、新しい物語の始まりを歩く人の姿だった。
その顔は、晴れやかだった。
憂いも悔いもなく。
梢は立ち尽くす。窓から見える母の姿は、いつしか交差点の人波にまぎれて消えた。
それから、彼女は病院へ通い詰めた。
午前の空気は硬く澄んでいて、ベッドに座る父の背中はますます小さく見えた。
日々の会話は、少しずつ変化を帯びた。最初は他愛ない報告、次第に記憶のかけらが混じり始め、父の言葉から断片的に、かつての母や自分自身の姿が紡ぎ直されていった。
洗濯されたパジャマを畳み、細かな食事の調整を看護師と話すその姿は、まるで母の代わりだった。しかし、梢はただ“代行”しているとは思わなかった。
彼女は今、父との時間を生き直しているのだった。
母が選んだ“別の道”の静けさを、遠くから見守るように。




