母という立場の陰影
玄関を開けると、台所から包丁の音が微かに聞こえた。こんな時間に母が家にいるのは久しぶりだった。
「ただいま」
「おかえり、珍しいわね。今日は遅かったじゃない?」
「あの……病院、行ってきたの。お父さんに会いに」
その言葉に、母は手を止めて振り返ると、少し間を置いた。
「私がどこに行ってるか、気になるのね」
その言い方に棘はなかった。むしろ、諦めたような静けさがあった。梢は言葉を失いかけたが、母の表情に押されるように、居間の椅子に腰を下ろした。
母は包丁を洗いながら、ぽつりと話し始めた。
「……好きな人ができたのよ」
その声は、空気に溶けるほど弱かった。でも、はっきりと届いた。
「ねえ、梢。あんたも、お父さんも、私のこと家政婦みたいに思ってない?家を支えるだけの存在。無言で、黙って、生活を回す係」
言葉の一つひとつは静かだったが、その底には長年積もった思いがあった。梢は返す言葉を探せなかった。母の視線はまっすぐだった。突き刺すような鋭さではなく、ただ、知ってほしいという願いのような眼差しだった。
誰かに見てもらいたかったのだ。存在ごと、心ごと。
その夜、家はやけに静かだった。冷蔵庫のモーター音が時折響いた。梢は、母の背中がこれまでと違う形に見えた。




