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誰かの記憶の中で
病院の空気は薄く乾いていて、廊下の窓は少しだけ曇っていた。
梢は、手提げ袋を持って病室に入る。父・義男はベッドの中で目を開いていた。骨ばった手、痩せ細った頬。以前の面影は、もうほとんど残っていない。
彼女を見た瞬間、義男は声を震わせて叫んだ。
「……梢、梢!」
何度も、同じ名前を繰り返す。目は涙で濡れていた。
久しぶりの面会。それでも、彼女は一瞬ためらう。「そんなに泣かなくても…」と心の中で思う。親子なのだから、当然の再会。それなのに、父の涙にはどこか“距離”を感じた。
その過剰さは、会えなかった年月だけではないと梢は思った。もしかして、父が呼んでいる“梢”は、自分ではない、かつての記憶の中の別の誰かなのではないか。
ベッドの脇に腰かけながら、彼女はふと、父の背中が昔よりもずっと小さくなっていることに気づいた。
そして、自分がその記憶の中で“誰か”になっている可能性に、静かに向き合うしかなかった。




