炊きたての手触り
味噌汁は、思ったよりも苦かった。出汁の取り方を間違えたのだろう。昆布を煮すぎたのか、煮干しの分量が多かったのか。それすら自信がなくて、雪野は自分で「まずいね」と小声で言った。
母は何も言わなかった。台所の隅に、背中を向けて佇んでいた。
その日を境に、家事はほとんど母の手を離れていった。洗濯物はたたまれず、買い物袋はそのまま流し台に置かれていた。澄子は眠っていることが増えた。雪野は、黙って無洗米を買った。
小さな炊飯器のスイッチを押す。湯気が立ち上ると、部屋がほのかに柔らかくなる。初めて炊いた白米は、少し水加減が多かったけれど、ラップのかかった冷ご飯よりもずっと美味しかった。
──これが、始まりかもしれない。
職場はまだ決まっていなかった。けれど、食べることには金がかかる。だから、自炊の延長線上に“生活の形”を見出そうとする雪野は、メモ帳に1週間分の米の消費量を記し始めた。
母に見せようとは思わなかった。けれど、夜、炊飯器の中のぬくもりに手を伸ばしたとき、雪野は少しだけ、背後の澄子が何かを感じているような気がした。
それでも言葉はなかった。けれど、雪野は初めて「自分で炊いたご飯」を最後まで食べ切った。
苦い味噌汁と、やわらかいご飯。まだ整っていない献立。それが今の雪野だった。




